30 Years Ago Now And Then
2016

    
1986年1月18日付
第1位 That's What Friends Are For - Dionne & Friends
大学1年生の1月あたりは、私が好んで聴く音楽と言えばやっぱり松岡直也、カシオペア、ザ・スクエアといった日本のフュージョン音楽ばかりでした。とりわけ松岡直也さんは、前年大晦日のレコード大賞で、中森明菜の「ミ・アモーレ」が大賞を受賞したこともあり、作曲者としてステージに登場。テレビを観ていた私も大いに盛り上がったという一幕がありました。フュージョン以外の私の興味は、1980年以前の昔の曲に行っており、ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」をカバーしたシャーリー・バッシーやらサラ・ボーンやらの歌声に聞きほれたり、「愛しのキッズ」(プリテンダーズ)や「哀愁のマンデー」(ブームタウン・ラッツ)、アメリカン・モーニング」(ランディ・バンウォーマー)といった曲を聴きなおしていたりしていました。そんなわけで、ビルボードチャートは上位の曲だけ耳にする状態で、今回紹介する「愛のハーモニー」も、ビルボード年間チャートで1位となった、超有名な曲というわけです。
スティービー・ワンダーのハーモニカで始まるこの曲は、もともとディオンヌ・ワーウィックとスティービー・ワンダーのデュエットとして企画されたようですが、そこにエルトン・ジョンとグラディス・ナイトが割り込んで、結果的に演者クレジットにスティービー・ワンダーの名前が無くなってしまい、そこがちょっと惜しい気がします。ウィキによると原曲はロッド・スチュアートが唄っていたようですが、そんな事実は検索して初めて知った次第です。当時夫婦関係にあった、バート・バカラックとキャロル・ベイヤー・セイガーによる楽曲で、このコンビは「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」も手掛けており、いわゆる「いい曲」を作るのは手慣れたものだったのでしょうね。大物アーティストによる名曲となれば売れない訳はなく、ビルボードHOT100の1986年1月18日付チャートで首位に立つと、同年2月8日付チャートまで4週連続のトップを維持しました。
1986年2月22日付
第5位 Living In America - James Brown
30年前のビルボードヒットを綴るというこのコーナーも、ついに1986年2月のところでネタ切れしてしまいました。当時どんな生活をしていたかも記憶から抜け落ちていたため、30年ぶりに当時の日記を引っ張り出して読んでみました。すると、こんな日々を送っていたということが判明しました。前年暮れに天神屋で餅づくりのバイトをして貯めたお金で山水のコンポを買い、下宿生活での音楽環境に変化がありました。ところが、FMの受信状況が悪くエアチェックに困難を来しており、勢いレンタルレコード屋でレコードを借り、好きな音楽ばかり聞いてしまうということになっていました。こんな状況では、当時のヒットチャートが記憶から抜け落ちていても無理はありません。今回紹介するジェームス・ブラウンの「リヴィング・イン・アメリカ」も、映画「ロッキー4」の挿入歌ということもあり、テレビで取り上げられることも多かったので、当時の記憶として残っていたのでしょう。
この曲はジェームス・ブラウンらしくファンクの王道を行っており、トランペット等の金管楽器が印象的です。めちゃイケのシンクロナイズドテイスティングのコーナーで、アメリカ代表の入場曲として使われており、現在でもテレビで耳にすることができる曲です。ビルボードHOT100では、1986年3月1日付チャートで最高位4位を記録しており、彼自身の代表曲である「セックス・マシーン」でさえ最高位15位でしたので、やはり大ヒット映画で使われた影響は大きいという感じです。今回紹介している1986年2月22日付チャートでは、赤丸付きの第5位。その他の上位の曲としては1位がホイットニー・ヒューストンの「恋はてさぐり」、2位にMr.ミスターの「キリエ」、3位がビリー・オーシャンの「ゲット・タフ」といったところで、私にとっては「聞いたことがあるけど、あんまり印象にない」という曲ばかりでした。
1986年3月15日付
第1位 Sara - Starship
年齢が50歳に近づいてくると、どうも思い出をネタに生きるということが多くなってくるのですが、今回紹介するスターシップの「セーラ」も、多少美化された記憶のバックグラウンドに流れる曲のひとつとなっています。この曲がヒットしたのは私が大学1年〜2年の時ですが、この曲を聴いて思い出すのは、それよりずっと時代が下った2000年の4月となります。当時の私は営業でクルマを運転することが多かったのですが、先輩社員として後輩の20代前半の女の子と同行営業で西へ東へとクルマを走らせていました。4月6日に大須賀の海岸にマッコウクジラが打ち上げられ、翌日そちら方面の仕事が入っていた私たちは、時間があったこともありその様子を見に行きました。春の夕暮れ、波の静かな海岸には私たちのような見物客が大勢集まっていたのですが、地元の人々の懸命な救出活動もむなしくクジラは既に息絶えていました。その後、会社に戻る東名高速道路上で聞いたのが「セーラ」。ロマンチックな間奏部分が密室に流れ、「このまま口説いちゃえ」という本能と、「仕事中だぞ」という倫理観の狭間で揺れていたことを思い出します。
スターシップといえば、源流はジェファーソン・エアプレインとなるのですが、サイケデリック・ロックの代表曲とされる「あなただけを」と、この「セーラ」は音楽的には対極にあるところが興味深いところです。ジェファーソン・エアプレイン→ジェファーソン・スターシップ→スターシップと、出世魚のように名前が変わるとともにメンバーが入れ替わり、音楽性が変化していって、1980年代半ばには産業ロック(私はこの種のロックが好物なのですが)のバンドとなったわけです。「セーラ」も打ち込みシンセサイザーが多用され、特に前述の間奏部分は幻想的でロマンチックな効果を得ています。それが春の雰囲気を醸し出すため、この曲を聴くとどうしても春の大須賀の海に思いがいってしまうというわけです。
さて、最後にチャートアクションを振り返ります。ビルボードHOT100では、1986年3月16日付で、前週までトップだったMr.ミスターの「キリエ」に代わって第1位に輝いたのですが、翌週にはハートの「ジーズ・ドリームス」に首位を明け渡しました。その他の上位にはアトランティック・スターやイン・エクセスといった面々もいるのですが、アーティストは知っていてもその曲はよく知らんという曲ばかりです。やはり、この時代の私はヒットチャートとは無縁の生活をしていたのでしょうね。
1986年4月19日付
第2位 Manic Monday - Bangles
1986年の4月は、私自身は大学2年生となり、生活面では大学の一番てっぺんにある人文学部棟で授業を受ける機会が多くなった時期でした。正門から10分もの登山でやっとたどりつく場所であるため、時間ギリギリに下宿に出ると、息は切れ、汗はとめどなく流れるという感じでした。しばらく遠ざかっていたビルボードチャートも、この頃にまた聞き出すようになって、この辺の時代のヒットチャートに馴染みのある曲が見られるようになっています。今回はその中からバングルスの「マニック・マンデー」を取り上げたいと思います。
「マニック・マンデー」は、月曜日は憂鬱だということを歌っていますが、ついつい連想してしまうのがブームタウン・ラッツの「哀愁のマンデイ」。もっとも「哀愁のマンデイ」の方は、月曜日が嫌いだ(学校に行くのが嫌だ)という理由で、ライフル銃を乱射してしまうという悲惨な事件を起こした少女のことを歌っているのですが、「マニック・マンデー」は同じ月曜日が嫌いな女性でも可愛らしい日常を歌っています。日曜日の夜に彼氏が訪ねてきたために、月曜日の朝に遅刻してしまうという、よくある月曜日を歌にしています。この辺が、ボブ・ゲルドフ率いる社会派バンドと、ポップなガールズ・バンドの感性の違いとなって現れていて、興味深いものとなっています。さて、「マニック・マンデー」はプリンスが作ったということを、今回調べてみて初めて知ったのですが、そういえばAメロ歌い出しの8分音符で同じ音を続けるところが、プリンスの「1999」とよく似ています。
それでは当時のチャートを振り返っておきましょう。「マニック・マンデー」は1986年4月19日付ビルボードHOT100で最高位2位を記録。1984年にデビューしたバングルスにとっては初の大ヒット曲となり、同じアルバムからは、後にシングルカットされた「エジプシャン」が全米1位にもなっています。この曲の1位を阻んだのはプリンス・アンド・ザ・レヴォリューションの「キッス」。同じ週の3位はロバート・パーマーの「恋におぼれて」でした。4位はファルコの「ロック・ミー・アマデウス」、5位はペット・ショップ・ボーイズの「ウェスト・エンド・ガール」と、私にとってなじみのある曲が並んでいます。その他18位のマイアミ・サウンド・マシーン「バッド・ボーイ」や、30位のジャクソン・ブラウン「フォー・アメリカ」等はこの頃によく聴いていました。
1986年5月31日付
第9位 Be Good To Yourself - Journey
1986年5月、待ちに待ったジャーニーのニュー・アルバム「レイズド・オン・レイディオ」がリリースされました。私がジャーニーを知ったのは、ライブアルバムである1981年の「ライヴ・エナジー」からですが、その年の秋に「エスケイプ」がリリースされ、空前の大ヒット。押しも押されもせぬロック・バンドの地位を築き、渋谷陽一氏からは「産業ロック」と揶揄されたりもしました。次のアルバム「フロンティアーズ」(1983年)も最高位全米2位ながら(1位はマイケル・ジャクソンの「スリラー」でした)ビッグセールスを記録し、すっかり大御所バンドになってしまいました。そして3年後、ようやくジャーニーの新作が満を持してリリースされたということです。このアルバムは前2作ほどヒットはせずに、最高位が全米4位ということでしたが、私としては少なくとも「フロンティアーズ」よりも出来がいいように感じました。この後、ジャーニーは仲間割れ→解散というお決まりのルートをたどるだけに、ちょっとせつないアルバムでもありました。
さて、アルバムリリースに先行してシングル・カットされた「トゥ・ユアセルフ」は、軽快でメロディアスなところが持ち味の楽曲でした。スティーヴ・ペリーのヴォーカルのバックで、ニール・ショーンのギターとジョナサン・ケインのシンセサイザーが絡み合うところなどは、「あぁやっぱりジャーニーだ」と感じました。また、終盤でのお決まりのニール・ショーンのギター・ソロは、初夏の気候にぴったりはまる爽快なリフで、これまた聴きどころとなっています。当時、静岡でようやく見られるようになった「夕やけニャンニャン」の「アイドルを探せ」のコーナーで、おニャン子予備軍の女の子がこの曲に合わせて踊っていたのを鮮明に覚えており、この曲がヒットしたころには、もう夕ニャンを見ていたんだなぁと感慨を覚えます。その後の1年ちょっとの間、おニャン子が解散するまでは、学校帰りの17時から毎日テレビにかじりついておりました。。。
最後に当時のチャートアクションから。「トゥ・ユアセルフ」は、1986年5月31日付ビルボードHOT100で、前週の13位から9位に上昇しベストテン入り。しかし翌週には11位に降下し、最高位は9位ということでした。1986年5月31日付チャートの1位は、ホイットニー・ヒューストンの「グレーテスト・ラヴ・オブ・オール」。素晴らしい曲なんですが、70年代のジョージ・ベンソンのカヴァー曲にトップを取られて、ジャーニー渾身のオリジナル曲が最高位9位というのは、ちょっと納得がいかないところです。
1986年6月14日付
第1位 On My Own - Patti LaBelle & Michael McDonald
毎年6月になると聴きたくなる曲がいくつかあります。今回はそのうちのひとつであるパティ・ラベルとマイケル・マクドナルドのデュエット「オン・マイ・オウン」を取り上げます。この曲は私が就職活動中に編集したテープに入っていて、それこそ1988年の6月には毎日といっていいほどヘッドホンステレオで聞いていました。ちなみに、その頃のヘビーローテーションだったもうひとつの曲は、ベリンダ・カーライルの「ヘヴン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」。このコーナーには来年の12月ころに登場予定なので、詳細はその時に記しますが、とにかくこの2曲が私の中では今でも6月を代表する曲であることは間違いありません。
実際にこの曲がヒットしたのは、私の中でのヘビーローテーションのちょうど2年前の1986年6月でした。もともとマイケル・マクドナルドのスモーキーな歌声が好きでしたので、1986年にパティ・ラベルとのデュエットで全米1位になった時のこともよく覚えています。もっともMTVではなくラジオでよく聞いていたクチなのですが。。。曲調としてはデュエットソングの定番の進行という感じですが、どことなく紗が掛かったようなサウンドに、6月の天気のような晴れているんだけど霞がかかっている風景を思い起こさせます。
「オン・マイ・オウン」は1986年6月14日付ビルボードHOT100で1位になると、翌週、翌々週とトップをキープし3週連続全米第1位という大ヒットとなりました。しかしながら、日本ではそれほど有名ではないらしく、ウィキペディアでは日本語のページがありませんでした。またこの曲以外の当時のトップ10には、私にとって馴染み深い曲がほとんどない状況で、かろうじてピーター・ガブリエルの「スレッジハンマー」(同年6月14日付第10位)のミュージックビデオは、当時よく見たかなと思う程度です。
1986年7月26日付
第2位 Danger Zone - Kenny Loggins
大学2年の夏休み。やっていたのは灼熱地獄の工事現場での旗振りでした。アルバイトの間、思い浮かべるのは帰ってからのビールのことばかり。その頃の記憶で「バービカン」と「スーパードライ」の記憶があるのですが、「スーパードライ」の発売は1年後。まだ20歳前だったので(コンパ等では飲みまくっていましたが)、おおぴらに晩酌としてビールを飲むのは控えていたのでしょう。当時、バービカンが発売された直後で、かなりCMが流れていましたので「バービカン」の記憶が「スーパードライ」に上書きされてしまったのでしょう。
当時聞いていた音楽は松岡直也さんの新作アルバム「ウォーターメロン・ダンディーズ」。地元のスーパー「ヤオハン」(現マックスバリュ東海)でBGMに「ア・ファースト・フライト」や「ワクワク・ソンゴ!」などがヘビーローテーションでかかっていたのを妙に思い出します。そして全米チャートに目を向けると、ケニー・ロギンスの「デンジャー・ゾーン」が上位にランクインしています。そのころ映画「トップ・ガン」は日本公開前でしたので、なんのこっちゃか分からなかったのですが、その年の暮れの公開後に観て洋画に詳しくない私でもはまってしまったくらいですので、公開直後の全米の盛り上がり方はハンパではなかったことでしょう。ハロルド・フォルターメイヤーのテーマに続いて、ギターとシンセサイザーによる派手なイントロに興奮が高まります。そして当時、映画とタイアップさせたら右に出る者はいないといわれた、ケニー・ロギンスのパワフルなボーカルに圧倒されます。私は特に「Highway to the danger zone」というフレーズが好きで、一時期この曲を聞きながら高速のインターに入ることにはまっていました(歌詞から考えるとアブナイ奴だな…)。
「デンジャー・ゾーン」は1986年7月26日付ビルボードHOT100にて最高位2位を記録しました。同世代でまず知らない人はいないような曲が1位を取っていないのに違和感がありますが、同日付チャートの1位はピーター・ガブリエルの「スレッジ・ハンマー」でした。この曲はプロモーション・ビデオが印象的で、MTV全盛期の当時はPVの出来がチャートを左右するという顕れでしょう。さてこの週の他の曲に目を向けてみると、5位にはピーター・セテラの「グローリー・オブ・ラヴ」が入っていて、この曲が翌週のチャートで1位になります。やはり映画のテーマ曲ですね。また、マドンナの「パパ・ドント・プリーチ」が6位にチャートインしており、この曲は同年8月16日付で1位を獲得しています。10位にはビリー・ジョエルの新作アルバム「ザ・ブリッジ」よりシングル・カットされた「モダン・ウーマン」で、この週が最高位でした。「ザ・ブリッジ」アルバムの他の曲については、このコーナーで取り上げる時がありそうです。
1986年8月9日付
第3位 Mad About You - Belinda Carlisle
ベリンダ・カーライルといえば、80年代初頭のガールズバンド「ゴーゴーズ」のヴォーカリストで、後に「ヘヴン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」をリリースし、世界的な大ヒットを飛ばしたことで知られています。「ヘヴン〜」は、来年のこのコーナーで必ず取り上げたいと思いますが、今回は彼女のデビュー・シングルである「マッド・アバウト・ユー」を取り上げます。ゴーゴーズ時代、デビューアルバム「ビューティ・アンド・ザ・ビート」(このタイトルは映画「美女と野獣」の原題のパロディ)が全米1位、シングル「ウィ・ガット・ザ・ビート」が全米2位(いずれも1981年)と大ヒット。翌年の「バケーション」もアルバム、シングルともに全米8位に送り込み、私もこの曲は大好きでした。しかし1985年にゴーゴーズは解散。翌年、満を持して主力メンバーの一人だったベリンダ・カーライルがデビューしたということです。その当時、世間的にもこのデビューは話題となり、デビューシングルの「マッド・アバウト・ユー」は、FMラジオなどでよく耳にしました。
そんな「マッド・アバウト・ユー」ですが、ヒットしていた当時よりも、リリースから2年を経た1988年の7月にこの曲の思い出があります。就職活動中の大学4年の時、本命の企業から内定をもらい、ようやく就活のプレッシャーから解放された翌日のこと、私は豊鉄バスの伊良湖ライナーで伊良湖岬に向かっていました。その時に持って行ったカセットテープに入っていたのがこの曲で、これを聞くと澄みわたった青空とひまわり畑の国道259号線の夏景色を思い出します。曲調は軽快なテンポのポップ・ロックで、特にイントロ部分に爽やかな夏のイメージが広がります。また、コーラス部分はゴーゴーズを彷彿とさせるメロディで、ちょうどゴーゴーズ時代と「ヘヴン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」の合間の曲という特徴を持っています。
そういうわけで、最後にチャートアクションに触れておきましょう。この「マッド・アバウト・ユー」は、1986年8月9日付および翌週の8月16日付ビルボードHOT100で最高位3位を記録し、彼女のソロデビューとしては上々のスタートでした。8月9日付チャートの1位はピーター・セテラの「グローリー・オブ・ラヴ」、8月16日付チャートの1位はマドンナの「パパ・ドント・プリーチ」で、これは前回触れています。この強力な2曲に挟まれて「マッド・アバウト・ユー」は最高位3位にとどまったのですが、そのリベンジは1年後にリリースされるセカンド・アルバムからのシングルカット曲で果たされるというわけです。
1986年9月13日付
第1位 Take My Breath Away - Berlin
1986年9月。残暑が厳しくまだまだ夏をひきずっていましたが、この夏の大ヒット映画である「トップ・ガン」からまたまたヒット曲が生まれました。トップ・ガンの愛のテーマであるベルリンの「愛は吐息のように」です。時代は下って10年後の1996年9月、私は山陰・山陽の旅をしていました。その時に泊まった岩国駅前のホテルには、ベッドサイドにラジオが付いていて、迷わず「FEN」と書かれたボタンを押してみました。するとラジオから流れてきたのは、この「愛は吐息のように」でした。FEN岩国のジングルとともに、この曲が流れた時の情景が今でも目に浮かびます。ヒットから10年も経った1996年に、FENでこの曲が流れたのを不思議に思っていましたが、全米1位となった月からちょうど10年後ということで選曲したんじゃないかと今では思っています。
さてベルリンというバンドですが、ウィキペディアによると「シンセ・ニューウェーブパンクバンド」というジャンルだそうです。そういえばボーカルのバックにずっと流れている重厚なシンセサイザーのハーモニーにその一端を感じさせます。曲調はスローバラードで、愛のテーマに相応しい曲となっており、名曲といっていいと思います。一方、私以外の多くの方もそうでしょうが、ベルリンの曲で知っているのはこの一曲だけで、いわゆる一発屋というレッテルも否めないところです。世間的には一発屋は批判の対象でしょうが、私は一発でも名曲を発表できれば、その演者の名も後世まで残っていくという点で幸せだと思います。
それでは当時のチャート動向を記しておきます。「愛は吐息のように」は1986年9月13日付ビルボードHOT100で1位を獲得しました。とはいえこの当時の上位の曲は強力なものが多く、1週でトップの座を陥落してしまいました。その週の第2位は「ダンシング・オン・ザ・シーリング」ライオネル・リッチーで、第3位は「スタック・ウィズ・ユー」ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース。記憶に残るところとしては第9位にランクされているラン-DMCの「ウォーク・ディス・ウェイ」でしょうか。ご存知のとおりエアロスミスのヒット曲をラップでカバーした曲で、当時低迷していたエアロスミスがこの曲で再評価され、90年代後半にかけて全米1位にも輝くなど活躍のきっかけとなりました。
1986年10月18日付
第10位 A Matter Of Trust - Billy Joel
スタジオ・アルバムとしては1983年の「イノセント・マン」以来3年ぶり。ビリー・ジョエルのニュー・アルバムを待ち続けた私にとっては、その「ザ・ブリッジ」というタイトルのアルバム・ジャケットを手に取った時のことを鮮明に覚えています。それまで1〜2年に1枚ずつアルバムをリリースしていたビリー・ジョエルですので、リリースに3年以上もかかったということは「大物アーティストになった」という証左でしょう。アルバム・ジャケットを一目見た時の感想は「重厚な感じだなぁ」。中身も彼のアイドルであったレイ・チャイルズとのデュエットをはじめとして、良く作りこんだ一作でした。ただ「ストレンジャー」以降のキャッチーな軽さというものが薄れ、商業的には苦戦するだろうなぁという予感がしました。残念ながら予感は当たり、アルバムチャートでの最高位は全米7位。シングル・カットされた曲も全米10位が最高ということでした。今回は、その最高位10位だったシングル「マター・オブ・トラスト」を取り上げます。
「マター・オブ・トラスト」は、収録曲の中でジャズ色の濃い「ベイビー・グランド」や「ビッグ・マン・オン・マルベリー・ストリート」に比べればロック寄りの曲ですが、「グラス・ハウス」の収録曲たちと比べるとブルージーな香りが漂っています。ビリー・ジョエル自身もそこを意識してか、わざと声を潰して熱唱しているようです。旧作中心だった翌年のソ連でのコンサートでもこの曲をセットリストに入れていましたので、彼の中で大事な曲であると同時に、大物になってもロックの精神は忘れないというメッセージがひしひしと伝わってきます。まぁ私としては、中学生のころから彼のファンであった弱みで、どんな曲がリリースされようが、音楽評論家から辛辣な意見を浴びせられようが、彼の曲は一方的に支持するし、全米チャートで奮わなくても、こうしてこのコーナーで取り上げていくというスタンスでいくつもりです。
それではチャートアクションを振り返っておきましょう。「マター・オブ・トラスト」は1986年10月18日付ビルボードHOT100で最高位10位にランクされました。その週のトップはジャネット・ジャクソンの「あなたを想うとき」で、大ヒットアルバム「コントロール」からのシングルカット曲。彼女自身初の全米1位シングルとなりました。2位はベテランシンガーであるティナ・ターナーの「ティピカル・メール」で、私はこの曲のタイトルのおかげでtypicalという利用頻度が多い英単語を覚えました。3位はシンディ・ローパーの「トゥルー・カラーズ」で、こちらも名曲の誉れ高い曲となっています。というわけで上位3曲は女性ソロシンガーが独占。男女雇用機会均等法が施行され、女性の時代といわれていた当時の時代背景と関係ありやなしや?
1986年11月15日付
第1位 Amanda - Boston
高校時代ボート部で同じクルーだったK君が、私の「好きなバンドは?」という問いかけに対し、「ボストン」と即答したことは35年も経った今でも覚えています。1982年当時、ボストンといえば1976年リリースのアルバム「幻想飛行」とシングル「宇宙の彼方へ」が知られている程度で、私たちが10歳になるかならないかの頃のアーティストを挙げたK君のことを、私は「デキるな」と思ったものでした。そこからさらに4年の歳月が過ぎて、1986年にボストン3作目のアルバム「サード・ステージ」がリリースされ、シングルカットされた「アマンダ」がヒットすると、私の中で再びK君がフィーチャーされ、「彼は先見の明があった」と思ったものでした。そのK君とは高校卒業以来音信不通で、今頃どこで何をしているのやらと、ふと考えてみたりします。
BS-TBSの「Song to Soul」で、「宇宙の彼方へ」が以前取り上げられました。その時にはじめて、私はボストンが実質的にトム・ショルツのワンマン・バンドであることを知りました。余談ですがエフェクターやその他の機器づくりも彼は手掛けていて、いくつもの特許も持っていることを知り、アーティストというよりエンジニアだという感想を抱きました。しかしながらこの「アマンダ」のサウンドは美しく、特にサビから先の音の広がりは「宇宙の彼方へ」を彷彿とさせました。そしてさんざん盛り上がった後に、静かなAメロに戻るという曲の構成もお気に入りで、ヒットしていた当時はもちろん、その1年半後にあった就活中もこの曲を聞いて励まされたものです。
では例によって当時のチャートを振り返ります。ボストンの「アマンダ」は1986年11月15日付ビルボードHOT100で1位に輝き、翌週11月22日付には2週連続で1位となりました。2位は後に1位になるヒューマン・リーグの「ヒューマン」。3位はマドンナの「トゥルー・ブルー」でした。さすがにクリスマスシーズンを目前に控えると、大御所たちがランキングの上位を占め、レコード・CDが最も売れる時期に向かって各社プロモーション合戦が繰り広げられているのが、チャートを見ただけでも分かるような気がします。
1986年12月13日付
第1位 The Way It Is - Bruce Hornsby & The Range
今回紹介する曲はブルース・ホーンズビー&ザ・レインジの「ザ・ウェイ・イット・イズ」です。私の好物であるピアノがメインの曲で、ロックとジャズの中間、いわゆるフュージョン・サウンドにも相通ずる曲調ですので、当時大学2年生であった私にとっては「どストライク」でした。この曲を今回取り上げるということがきっかけで、「そもそもピアノをフィーチャーした軽音楽を、なぜ私が好きになったのか」をいろいろと考えてみました。まず心当たりがあるのは、ビリー・ジョエルの存在。ピアノの弾き語りというスタイルに憧れたものです。「素直のままで」や「オネスティ」もいいのですが、弾き語りという面で一番のお気に入りは「ニューヨークの想い」。ジャズテイストも含まれていて、「ザ・ウェイ・イット・イズ」に通じます。しかし、ビリー・ジョエルを最初に好きになったのは、ロックアルバムの「グラス・ハウス」、もっというとシングルカットされた「ガラスのニューヨーク」。もはやピアノはまったく関係ありません。TOTOのデビッド・ペイチやジャーニーのジョナサン・ケインのピアノもハマりました。TOTOなら2ndアルバム「ハイドラ」に収録されている「99」がピアノバラードとして秀逸ですが、私は「Stジョージ&ザ・ドラゴン」のバッキングピアノが格好いいなと思っていました。ジャーニーなら迷うことなく「愛に狂って(Don't Stop Believin')」のリフですが、この曲はビリー・ジョエル以後になりルーツとはいえません。ビリー・ジョエルより前となると、ボブ・ゲルドフがいたブームタウン・ラッツの「哀愁のマンデー」のピアノが圧巻ですが、バグルス「ラジオ・スターの悲劇」の軽いバッキング・ピアノも好きでした。おそらく洋楽好きになったルーツはこのへんなんですが、それ以前の小学校時代に、ザ・ベストテンでピアノ弾き語りをしていた2人のシンガーソングライターが印象に残っています。ひとりは原田真二さんで、もうひとりは八神純子さん。子供だった私にとってピアノを弾きながら歌も歌うなんてスーパーマンみたいな人だと思ったものでした。たぶんこのあたりがピアノ好きのとっかかりになったと思います。
さて、ずいぶん回り道してしまいましたが、「ザ・ウェイ・イット・イズ」について記します。この曲を聴いてまず思うのが、ピアノの超絶テクニックが凄いということで、特にブリッジ部分は聴きどころですが、それをさしおいて私はブルース・ホーンズビーの渋いボーカルに心を動かされます。この曲を初めて聞いたときの記憶がそうさせるのか、この曲のイメージは真夜中なのですが、渋いボーカルがそのイメージを一層引き立てます。ピアノを凄い勢いで弾いている割には、シンプルな楽器構成なので意外と音の隙間が多いのですが、この隙間に夜のAMラジオ特有の混信が入ると、今でもこの曲を初めて聞いた夜にタイムスリップしそうです。この曲をつまみにウィスキーを飲んで、煙草を吸う。すっかり早寝になってしまった私ですが、たまには真夜中にこんなことをしてみたいなと思わせる曲でもあります。
最後に恒例のチャートアクションに触れておきます。「ザ・ウェイ・イット・イズ」は、1986年12月13日付ビルボードHOT100で、先週の4位からいきなり1位にジャンプアップ。見事全米第1位アーティストクラブの仲間入りを果たしました。もっとも翌週にはバングルスの「ウォーク・ライク・ア・エジプシャン」に1位の座を明け渡しておりますので、わずか1週のトップでした。当時のチャート上位はビリー・アイドルの「トゥ・ビー・ア・ラバー」やデュラン・デュランの「ノートリアス」などの、流行りのサウンドをガチャガチャやる人たちが上位を狙い、ボン・ジョビの「バッド・ネーム」やヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの「ヒップ・トゥ・ビー・スクエア」あたりの有名バンドが居座るという状況でしたので、よくこんな高尚な「ザ・ウェイ・イット・イズ」がトップを獲れたものだと思います。今挙げた曲の中で、現在でも「いい曲だ」と感じるのは、おそらく「ザ・ウェイ・イット・イズ」だけですので…。というわけで今年の「30 Years Ago Now And Then」のコーナーはこれで終わります。来年は1987年、再来年は1988年と、自分の中では洋楽が豊作だった年が続きますのでどうぞお楽しみに。

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