30 Years Ago Now And Then
2015

    
1985年1月26日付
第2位 I Want To Know What Love Is - Foreigner
2009年1月に「80年代を網羅するため、10年は続けよう」と思って始めたこのコーナーも折り返し点。今年もご愛顧のほど、お願いします。さて30年前の1985年1月は、現在「センター試験」と名前を変えている「共通一次」に挑んだ月でした。幸いなことに一生一度の経験になりましたが、受験前後は不安に駆られたり、結果的に志望校を変えずに済んで安堵したりで、目まぐるしい一か月となりました。今回紹介するフォリナーの「アイ・ウォナ・ノウ」は、そんな暗黒の時代の中で聞き入るのにぴったりな曲でした。
原題は「I Want To Know What Love Is」なのに邦題が「アイ・ウォナ・ノウ」。何か原題の英語の方が中学校で習う英語の文法みたいのような感じがするのは私だけでしょうか。まぁそれはともかく、フォリナーといえば必ず語られる「悲劇の2位」の曲、「ガール・ライク・ユー」を彷彿とさせるマイナーコードのバラードです。特筆すべきは、その悲劇の2位を乗り越えて、1985年2月2日付ビルボードHOT100で初の全米1位に輝いたことです。聴きどころは、ルー・グラムのリード・ボーカルと、サビの部分の聖歌隊によるコーラスで、これがこの曲に深みと広がりを持たせています。
最後にチャートアクションですが、今回紹介している1985年1月26日付チャートでは、先月紹介したマドンナの「ライク・アヴァージン」に続いて2位でしたが、上に記したとおり翌週の2月2日付チャートで、彼ら自身初の全米1位になりました。翌2月9日付チャートでも1位を守り、フォリナーの最大のヒット曲となりました。当時のチャート上位の曲を紹介すると、4位にトシちゃんの曲にイントロが似ていると話題になったフィリップ・ベイリーとフィル・コリンズの「イージー・ラヴァー」。5位にワムのバラード「ケアレス・ウィスパー」がランクイン。これも西城秀樹がカヴァーしているので、割と日本人にも馴染みやすい曲が上位を占めていた時期でした。
1985年2月9日付
第5位 The Boys Of Summer - Don Henley
スティーヴィー・ニックスやマイケル・マクドナルドなど、私はちょっとハスキーなボーカルが好きなのですが、今回紹介するドン・ヘンリーも「ホテル・カリフォルニア」を耳にして以来の好きなボーカリストのひとりです。そもそも洋楽を本格的に聴き始めたのが1979年の秋。ちょうどイーグルスの解散前の最後のアルバム「ロングラン」がリリースされた年で、かろうじてシングルカット曲「ハートエイク・トゥナイト」のヒットに間に合いました。イーグルス好きを自認している自分としては、ファンになるのが遅くて恥ずかしいくらいですが、そこからだんだんと遡ってドン・ヘンリーの偉大さを知ったということです。逆にイーグルスが1982年に解散し、主要メンバーであるグレン・フライとドン・ヘンリーがソロアルバムをリリースしていった頃のことは、かなり鮮明に覚えています。その流れの中で、今回の曲「ボーイズ・オブ・サマー」は、ドン・ヘンリーの2枚目のアルバム「ビルディング・ザ・パーフェクト・ビースト」からの1枚目のシングルカット曲で、リアルタイムでチャートを駆け上るさまを見守っています。
「ボーイズ・オブ・サマー」は、彼の作品としてはかなりハード・ロック寄りの曲で、それは2002年にこの曲をカヴァーしたアタリスというバンドがパンクを得意にしていることが証左となっています。ドン・ヘンリーのソロ曲の中で最もヒットした「ダーティー・ランドリー」もそうでしたが、シンセサイザーを多用しており、その部分をディストーションの効いたギターに変えると簡単にハード・ロックになるという仕組みです。さて、真冬にチャートを駆け上ったこの曲に、なぜ「サマー」というタイトルが付いているのか当時は疑問でしたが、歌詞の内容は夏を思い出す内容で、どちらかというと秋に聴きたくなる曲です。シングルとしてリリースされたのが10月の終わりですので、そういう意味では間違っていなかったんですね。まぁ冬に聴く夏の想い出というのもオツなもので、モノクロのプロモーションビデオはぜひ真冬のこの時期にご覧いただきたいと思います。
最後にチャートの動きに触れておきます。「ボーイズ・オブ・サマー」は1985年2月9日付ビルボードHOT100で最高位5位を記録しましたが、翌週はランクダウンしており、スマッシュヒット級といったところでしょうか。1位には先月紹介したフォリナーの「アイ・ウォナ・ノウ」が居座っており、2位は「イージー・ラヴァー」、3位は「ケアレス・ウィスパー」となかなかの強力な上位陣でした。「イージー・ラヴァー」はご存じのとおりアース・ウィンド&ファイアのフィリップ・ベイリーがフィル・コリンズとデュエットしており、プロモーション・ビデオが有名な作品です。「ケアレス・ウィスパー」は能天気な曲が多かったワムが、初めてヒットさせたバラードで、粘りつくようなサキソホンのイントロなど、誰もが一度は耳にしたことのある曲でしょう。その中でのベスト5入りですので、「ボーイズ・オブ・サマー」も健闘した部類かもしれません。。。
1985年3月9日付
第1位 Can't Fight This Feeling - REO Speedwagon
これだけ80年代の洋楽に傾倒している私ですが、人生のターニングポイントになった曲は数えるほどしかありません。このコーナーでいずれも取り上げている(これから取り上げる曲もありますが…)のですが、順に挙げていくと、最初に1980年5月の「ガラスのニューヨーク」ビリー・ジョエル。そして、1982年9月の「素直になれなくて」シカゴ、1983年2月の「アフリカ」トトと続き、今回取り上げるREOスピードワゴンの「涙のフィーリングが出てきます。この後取り上げる曲では、1987年12月のベリンダ・カーライル「ヘブン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」くらいですので、私にとってかなりの重要な曲です。もともと自分にとってREOスピードワゴンは、トト、ジャーニーと並んで好きなバンド御三家に位置づけされているのですが、他の2つのバンドと比べるとそれほど有名でないのかもしれません。70年代はヒット曲に恵まれないながらも、年間300日に及ぶツアーをこなし、ヴォーカルで中心メンバーのケヴィン・クローニンの名前をもじって「苦労人バンド」と呼ばれさえもしました。80年代に入るとアルバム「禁じられた夜」が15週連続全米1位を記録し、そのアルバムからのシングル・カット曲「キープ・オン・ラヴィン・ユー」も1981年3月21日付ビルボードHOT100で第1位となり、バンドとしての絶頂期を迎えました。私が彼らを知ったのもちょうどこのころです。その後、再びセールスに恵まれず「一発屋」的な言われ方もされましたが、4年の時を経て、ふたたび「涙のフィーリング」が全米1位に輝くという快挙を成し遂げました。
この曲がチャートを駆け上っている時期は、私が大学の受験勉強をしていたころに重なります。共通一次、私立の入試、そして国立の入試と続く暗黒のトンネルの中で、この曲を聴くと出口の明かりがうっすらと見えたような気がしました。曲としてはピアノが印象的なバラードで、ケヴィン・クローニンの甘いヴォーカルが心に優しく響きます。聴きどころは、間奏部分。ピアノをバックにエレキ・ギターのソロが盛り上がっていき、「あぁ出口はもうそこだ」という雰囲気です。そしてその後のリズムを刻むギターも最高にかっこよく、今聴いても古臭さをまったく感じさせません。
では、いつもの通りチャートアクションを触れましょう。「涙のフィーリング」は1985年1月19日付ビルボードHOT100で初登場46位と上位にランクインすると、34位→26位→16位と順位を上げていきました。同年2月16日付ではベストテン圏内の7位にジャンプアップし、以後4位→2位と上昇し、1985年3月9日付チャートで念願の全米1位に輝きました。その後3月23日付まで3週連続でトップを守り、私の受験生生活も大団円となりました。そして、いよいよ来月からは1人暮らしとなった大学生活で聞いていた曲が登場しますのでご期待ください。
1985年4月6日付
第3位 Material Girl - Madonna
静岡大学の二次試験。英語の長文読解は「バンド・エイド」のお話でした。私の好きな曲だった「哀愁のマンディ」を唄っているブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフが、ウルトラヴォックスのミッジ・ユーロと2人で立ち上げたアフリカの飢餓救済のプロジェクトは、中学生の頃から洋楽に慣れ親しんでいる私にとってはあまりにも詳しく知っていることでしたので、問題を見た途端に心の中でガッツポーズをしてしまいました。というのも試験前に想定していた最後の難関は、英語の長文読解だったからです。というわけで晴れて静岡で一人暮らしを始めることになり、18年間住んでいた故郷を離れました。当時流行っていた曲は、私にとってバンド・エイドの二番煎じとしか思えなかったUSA・フォー・アフリカの「ウィ・アー・ザ・ワールド」でしたが、曲自体にはあまり魅力を感じませんでした。それよりもふと口ずさむのはグレン・フライの「ヒート・イズ・オン」と、今回紹介するマドンナの「マテリアル・ガール」でした。
初めて一人暮らしをすると、人間関係や生活スタイルがガラッと変わり、いろいろと気苦労が多いわけですが、そんな時に「マテリアル・ガール」のAメロ部分を口ずさんでいると、不思議となんとなく乗り越えることができました。コード進行や符割、あるいは音階が分かりやすく、生活テンポに合わせやすいというのがその理由だと思います。その素材を当時売出し中のマドンナがポップに唄うのですから、元気が出てくるのも当然といえるでしょう。で、この曲は「ライク・ア・ヴァージン」アルバムのセカンド・シングルとしてリリースされているので、ナイル・ロジャースがプロデュースするところのベースラインに「ライク・ア・ヴァージン」との共通性が見出せます。リズム隊がしっかりしているところもこの曲の魅力かもしれません。欲を言うともう少し彼の特徴であるカッティング・ギターが前面に出ていればというところもありますが…。
さて、最後にチャートアクションですが、この曲の最高位は1985年3月23日付と翌週30日付のビルボードHOT100で記録した2位でした。その時の1位は先月紹介した「涙のフィーリング」と、フィル・コリンズの「ワン・モア・ナイト」でした。先ほど述べたグレン・フライの「ヒート・イズ・オン」も「涙のフィーリング」に阻まれた組で、最高位は2位。つまり、「ヒート・イズ・オン」と入れ替わりで「マテリアル・ガール」が2位になったというわけです。「ワン・モア・ナイト」が2週連続で1位になった後、入れ替わりで4月13日付チャートで1位になったのが「ウィ・アー・ザ・ワールド」で、この曲は5月4日付チャートまで4週連続でトップを守り、レコードがバカ売れしました。おかげで多額の寄付がアフリカの飢餓救済に回ったとさ…。
1985年5月25日付
第4位 Axel F - Harold Faltermeyer
高校生以前の私は、映画音楽が好きではなく「ケッ」と思っていました。特にインストゥルメンタルは、イージーリスニング的なものが多く毛嫌いしていたものです。まぁ、歌入りの映画音楽は場合によりけりで、変身した後のケニー・ロギンスあたりは、まぁまぁ好みでしたが。で、大学に入学し時間ができてくると映画を観るのが好きになり(といってもテレビかレンタル・ビデオでしたが…)、ジョルジオ・モロダーやハロルド・フォルターメイヤーのインスト曲も徐々に受け入れるようになりました。ハロルド・フォルターメイヤーといえば、トップガンのテーマ曲が有名ですが、ヒットしたのは今回紹介する「アクセルF」の方で、ポップ・チャートの3位まで上がったインスト曲でいえば、1982年5月のヴァンゲリス「炎のランナー」(全米1位)以来の大ヒットとなりました。
「アクセルF」は、大ヒット映画「ビバリーヒルズ・コップ」の挿入曲で、主演のエディー・マ−フィーが尾行なんかをするたびに流れていました。典型的なシンセサイザーの曲で、エッジの効いた音色が印象的でした。ビバリーヒルズ・コップからはグレン・フライの「ヒート・イズ・オン」もヒットしており(1985年3月15日付ビルボードHOT100で最高位2位)、こちらの曲は先月紹介した「マテリアル・ガール」とともに、静岡で下宿生活を始めたころに、よく口ずさんだ思い出の曲でもあります。
では最後にチャート・アクションに触れておきましょう。「アクセルF」のビルボードHOT100での最高位は第3位。1985年6月1日付チャートから3週連続でその位置をキープしました。その当時の1位はワムの「恋のかけひき」で、ワムの曲の中でも華やかさに欠ける曲で、よくこんな曲が全米1位になったものだと思います。上位の曲の中で現在でも残っている名曲は第5位のシャーデー「スムース・オペレーター」。ワムと違って大人っぽい曲調で、当時大人に早くなりたいと思っていた私にとっては憧れの曲でした。
1985年6月8日付
第4位 Everybody Wants To Rule The World - Tears For Fears
大学1年生の梅雨時、私は少し遅めの五月病になり下痢などの症状に悩んでいました。夏の前のどんよりとした曇り空を見ると、今でも思い出すのが、その頃流行っていたティアーズ・フォー・フィアーズの「ルール・ザ・ワールド」です。ポップで覚えやすいメロディラインなのですが、歌い出しのところで休符が入るところと、そのまま1拍目で歌うところが目まぐるしく入れ替わり、符割どおりに歌えるとカタルシスを感じる曲でした。また、シンセサイザーのアレンジが素晴らしく、特にエンディングのサビでフィルインするところはかなり気に入っていて、「来るぞ来るぞ」とメロディラインそっちのけで、毎度毎度フィルインを待ってしまう状態です。
ティアーズ・フォー・フィアーズはもともと英国のバンドで、アメリカン・ロック絶対主義だった当時の自分にとっては馴染みのないところでしたが、第2次ブリティッシュ・・インヴェイジョンの流れに乗って本国よりもアメリカや日本で人気になりました。この「ルール・ザ・ワールド」も全英では2位(チャートによっては1位のところも)にとどまりましたが、ビルボードHOT100では1985年6月8日付チャートから2週連続で1位となりました。アメリカで好まれるポップでわかりやすい音楽がヒットにつながったのではないかと思います。前作シングルの「シャウト」は日本でもCMで流れて、ご当地メーカーのクルマだったこともありお馴染みとなりました。
さて最後に当時のチャートを振り返っておきましょう。この時代はカナダ出身のロッカー、ブライアン・アダムスがブレイクした時期でもあり、「ルール・ザ・ワールド」が1位を明け渡した曲が、ブライアン・アダムスの「ヘヴン」でした。その他、ブリティッシュ・インヴェイジョンつながりとしてはデュラン・デュランの映画007のテーマ曲も上位にランクされており、前者はともかく後者は苦手なバンドでしたので、徐々に洋楽の興味が薄れ、松岡直也さんに傾倒していく時代でありました。
1985年7月27日付
第10位 Get It On(Bang A Gong) - The Power Station
1985年の夏はフュージョンばっかり聴いていました。アルバム「Splash & Flash」をリリースし、中森明菜に「ミ・アモーレ」を提供し、おまけに12インチで「九月の風」と「サンスポット・ダンス」を取り直すなど精力的に活動していた松岡直也さんへの傾倒ぶりはハンパありませんでした。高校時代からはまっていたカシオペアは、この年に私のお気に入りのアルバム「HALLE」をリリースしましたし、ザ・スクエアも名曲オーメンズ・オブ・ラヴが収録されているアルバム「R・E・S・O・R・T」を発表し、私の中では洋楽が入り込む隙間がないほどでした。
とはいっても現在よりも全米ヒットチャートが身近だった時代ですので、フックのある曲は覚えています。そのうちのひとつが今回紹介するパワー・ステーションの「ゲット・イット・オン」です。原曲は言わずと知れたTレックスの名曲ですが、10数年後のカバーなので音が洗練されています。一言で言えばTレックスの方はサイケの残り火と疾走感、パワー・ステーションの方はエッジの立ったギターとオカズの多いドラミングといった感じでしょうか。パワー・ステーションのメンバーはデュラン・デュランのジョン・テイラー(b)とアンディ・テイラー(g)、シックのトニー・トンプソン(ds)にヴォーカルのロバート・パーマー(ついついロバート・プラントと間違えてしまいます)を迎えた4人編成。隙間の多いサウンドはこの編成ならではといったところでしょうか。
ではいつもの通りチャートを振り返っておきます。「ゲット・イット・オン」は今回紹介した週の次の週、すなわち1985年8月3日付のビルボードHOT100で最高位9位になり、2週にわたってその位置をキープしました。1985年7月27日付HOT100のトップは、ぬるいヴォーカルが印象的なポール・ヤングの「エヴリタイム・ユー・ゴー・アウェイ」、2位はクルマのCMで御馴染みのティアーズ・フォー・フィアーズの「シャウト」でした。5位にスティングの「セット・ゼム・フリー」、6位にブルース・スプリングスティーンの「グローリー・デイズ」とベテランが頑張っていました。総じて米英連合のパワーステーションよろしく、チャートも米国人と英国人がごちゃまぜとなっていた頃でした。
1985年8月24日付
第1位 The Power Of Love - Huey Lewis & The News
大学1年生の夏休み、私は今はなき西鹿島の浜北自動車学校に、ほぼ毎日通っていました。本当はその前に原付免許を取って、自動車学校にはバイクで通うつもりでしたが、学科試験に落ちて自転車&電車で通うことになりました。学科もだめなら運転技術の方も最悪で、上手い人なら2週間で卒業できるところを、ほぼ倍の日数を費やしてしまいました。そんなころ流行った映画が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で、タイムマシンと化すデロリアンを見て、「あぁ早く免許を取ってクルマを運転したい」と思ったものでした。
さて、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のテーマといえば、言わずと知れた「パワー・オブ・ラヴ」で、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの最大のヒットとなっています。ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースは1982年の「ビリーヴ・イン・ラヴ」の頃から知っており、その爽やかなハーモニーはAOR全盛の頃にマッチして私の耳を虜にしました。アルバム・タイトルからして「ベイエリアの風」ですから、彼ら自身はともかく、日本のレコード会社(東芝EMI)の戦略はミエミエでした。ところが爽やか路線から一転して、「パワー・オブ・ラヴ」は逆に暑苦しさを感じるほどの曲でした。イントロのホーン・セクションといい、ヒューイ・ルイスのしわがれ声のシャウトといい、聞いているだけで汗がにじみ出るような感じです。でもその押し出しの強さが映画にマッチして大ヒットにつながったのでしょうね。
では恒例のチャートの振り返りをしましょう。「パワー・オブ・ラヴ」は、1985年8月24日付ビルボードHOT100で、前週まで3週連続1位だったティアーズ・フォー・フィアーズの「シャウト」を引きずり降ろして1位に輝くと、翌週も1位となり2週連続で全米ナンバーワンの座を確保しました。その週の4位にも映画絡みのジョン・パー「セント・エルモス・ファイア」がランクインしており、相変わらず映画と音楽の結びつきが強い時代を表わしています。
1985年9月7日付
第9位 You're Only Human (Second Wind) - Billy Joel
私の運転免許証の発行は1985年9月3日。それ以降、実家に眠っていたヤマハ・メイトを整備し、夏休みが終わるまでいろんなところを走り回っていた30年前の9月でした。音楽趣味の方では、あいかわらずフュージョンに傾倒していたのですが、松岡直也さんが名曲「九月の風」をセルフカヴァーし、中森明菜に提供して大ヒットした「ミ・アモーレ」のインスト・バージョンとセットで12インチ・シングルでリリースし、それを聴きまくっていたころでした。そういうわけで洋楽が入り込む隙間がなかったのですが、中学時代からの大のお気に入りだったビリー・ジョエルの新曲は、さすがに聞き逃せませんでした。
今回紹介する「オンリー・ヒューマン」は、「ビリー・ザ・ベスト」というベスト盤にボーナス・トラックとして収録された2曲のうちのひとつで、オリジナル・アルバムでいうと「イノセント・マン」と「ザ・ブリッジ」の間にリリースされています。この頃のビリー・ジョエルは、3月にクリスティ・ブリンクリーと結婚し、12月には娘のアレクサ・レイ・ジョエルが誕生とプライベートが忙しく、「とりあえずベスト盤でも出してお茶を濁しておこう」という感じだったのでしょうか。楽曲としての「オンリー・ヒューマン」は、アルバム「イノセント・マン」で披露した50年代から60年代のドゥ・ワップ調で、時が2年経過していますのでシンセ・ドラムや電子楽器を多用して、「ちょっと新しめにお化粧しておこう」という魂胆が透けて見えます。それでもビルボードHOT100の1985年9月7日付で、ベスト10圏内の9位まで上がったのは、私同様ビリー・ジョエルの新曲を待ち焦がれていたファンが多かったという証左でしょう。
同日付のチャートで注目すべきは、ダイアー・ストレイツの「マネー・フォー・ナッシング」が6位に急上昇しているところで、この曲は2週間後のチャートで1位になり、3週連続でトップを維持しました。ダイアー・ストレイツといえば「悲しきサルタン」も好きな曲ですが、時代に左右されない音楽性を持つマーク・ノップラーと、時代とともに売れセンの音楽を作るビリー・ジョエルは好対照であり、どちらも称賛に値すると思います。
1985年10月19日付
第1位 Take On Me - A-Ha
高校時代は部活に明け暮れ、大学1年の夏休みは運転免許の取得に精一杯だった私が、初めてアルバイトをしたのは1985年の10月でした。静岡市内の電子部品の工場で、平日の夕方5時から8時まで3時間、基盤に細かな部品を組み付けるという作業をしていました。しかし、その年の9月22日に発表されたプラザ合意により円高ドル安が進み、輸出企業とその下請けは大打撃を受け、1ヶ月も経たないうちにクビになってしまいました。この時に私は初めて「社会って厳しい!」ということを体感しました。そんな時に日本でも大ヒットし、あの「ドレミファ・ドン」でも超ウルトライントロクイズの定番となった「テイク・オン・ミー」がいろいろなところで流れていました。当時は洋楽のヒット曲が現在よりも社会生活に入り込んでいて、オリコンでも25位にランクインしました。来日してプロモーション活動を行ったわけでもないのに、ミュージック・ビデオとラジオのヘビー・ローテーションだけで、ここまでの大ヒットになったわけです。
曲調としては当時流行っていたきらびやかなシンセサイザーの音色が特徴で、特にイントロ部分に強いフックがあり、それゆえ「ドレミファ・ドン」でもクイズとして採用されたのだと思います。またミュージック・ビデオはMTV全盛の時代の中でも秀逸なもので、アニメーションと実写を巧みに合成したスピード感あふれるものでした。ア〜ハは他にも「シャイニン・オンTV」や007のテーマなどヒット曲がありますが、あまりにも「テイク・オン・ミー」の印象が強いためか「一発屋」のレッテルを貼られがちです。しかしこの曲のイントロが流れるだけで、かなりの人に当時の思い出が甦えらせてくれるという意味では、時代のセンターに存在した曲だと思います。
さて、1985年10月のビルボードHOT100は毎週1位が変わるという目まぐるしさで、10月5日付の1位は前月から3週連続で「マネー・フォー・ナッシング」ダイアー・ストレイツでしたが、翌週はプリンスっぽい曲調の「オー・シーラ」レディ・フォー・ザ・ワールド。そして翌10月19日付が今回紹介した「テイク・オン・ミー」ア〜ハで、10月26日付はホイットニー・ヒューストンの「すべてをあなたに」でした。実は曲としては、「テイク・オン・ミー」よりも「すべてをあなたに」の方が圧倒的に好みなのですが、時代を紹介するという意味では「テイク・オン・ミー」の方が相応しいと思い、今回取り上げました。そして翌11月2日付は、また別の曲がトップに。次回はその曲を紹介したいと思います。
1985年11月2日付
第1位 Part-Time Lover - Stevie Wonder
カセットテープを作るのをやめたTDKが7年ぶりにCMをリリースしました。それもスティーヴィー・ワンダーを起用。TDKとスティーヴィー・ワンダーといえば1982年の「Music Reference AD」が思い出されるのですが、そのCMに流れていた「ザット・ガール」や「ドゥ・アイ・ドゥ」がカッコよく、すっかり影響されてしまった加藤少年は、それ以来カセットテープはTDKの製品しか買わなくなりました。今でもカセットテープが400本くらい自宅にあるのですが、1982年以降の350本くらいは全てTDK。それほどCMというのは影響力があるのですね。で、時代が3年ほど下って1985年の秋、今度はTDK「AR」のCMで、スティーヴィー・ワンダーが「パートタイム・ラヴァー」をバックに出演しました。当然、影響を受けた私は、ADよりちょっと値段が高いARを買うようになり、TDKの売り上げに益々貢献するということになりました。それ以来、30年ぶりのTDKとスティーヴィー・ワンダーのコラボレーションですから、ネット上で多少なりとも話題になるのは、さもありなんという感じです。
さて、その「パートタイム・ラヴァー」ですが、リリース当時の邦題は「パートタイム・ラバー」。ゴム工場で働くパートのオバちゃんのようなタイトルですが、その当時はloveとかstevieとかのvの表記は、ヴではなくバビブベボで表していましたから、当然スティービー・ワンダーのパートタイム・ラバーとカセットテープに書き込んでいました。曲調の方は打ち込みのダンスナンバーですが、当時聞こえていた16ビートのハイハットの音が、YouTube上では聞こえなくなっており、音質が悪いのか、老化なのか、はたまた記憶違いなのか、とにかく困った状態になってしまいました。2005年の9月にクリーヴランドのロックンロール・ホール・オブ・フェイム(ロックの殿堂)で、この曲を聴きまくったのですが、その時は確かにヘッドホンからハイハットのツクツクツクツクというリズムは聞こえていたので、おそらく老化で高音が聞き取りにくくなってしまったのでしょう。また、この曲では全編にわたってバック・コーラスが聞けますが、このリフがカッコよく気に入っている部分のひとつです。ちなみに当時流行の12インチヴァージョンでは、間奏部分でコーラスだけになる部分があり、このリフの良さが堪能できます。
それでは、例によって当時のチャートを振り返っておきましょう。先月も書いたように、「パートタイム・ラヴァー」は1985年11月2日付ビルボードHOT100で第1位になりましたが、翌週の11月9日にはTVドラマである「マイアミ・ヴァイスのテーマ」(ヤン・ハマー)が1位、そのまた翌週の11月16日付ではスターシップの「シスコはロックシティ」が1位になるなど、トップがめまぐるしく変わるのは前月と同様でした。その他、この週トップ10入りしている曲でお気に入りだったのは、グレン・フライの「ユー・ビロング・トゥ・ザ・シティ」で、やはりマイアミ・ヴァイスの挿入歌だったのですが、ビバリーヒルズ・コップで使われた前作のヒット曲に比べて、サックスがフィーチャーされているぶん大人向けで、深まりゆく秋にお似合いの曲でした。
1985年12月21日付
第1位 Say You Say Me - Lionel Richie
ライオネル・リッチーの「セイ・ユー・セイ・ミー」を今回は取り上げるのですが、リリースされた1985年ではなく、1992年夏の思い出とともにこの曲はあります。1992年当時、私はJR線完乗を志し、青春18きっぷを片手にいろいろな線区を乗りまわっていました。その日も朝から東羽衣支線や和歌山市駅、はたまた桜島線と大阪近郊の盲腸線を乗り歩くというおもしろくもなんともない旅をしていました。その日の夜は14系シュプール編成の「ムーンライト九州」に乗車する予定でしたので、時間調整のため琵琶湖一周しようと思い湖西線に乗りました。夏の夕暮れ、高架線から見た琵琶湖の眺めに感動したのですが、その時に聞いていた曲がこの「セイ・ユー・セイ・ミー」。無味乾燥な旅を癒してくれるひとときでした。この時に「夕暮れ時に聞きたい曲を集めてカセットテープに編集しよう」という構想を思いつき、できたテープが「TWILIGHT SECTION」で、カセットテープからMP3プレイヤーになりましたが今でも旅のお供になってくれています。
この曲は映画「ホワイトナイツ/白夜」のテーマソングで、アカデミー歌曲賞を受賞しています。とはいえこの映画を観てはいないので、どうこう言うこともできないのですが、PVには映画のカットが散りばめられていましたので、「あぁ映画のテーマソングね」と当時は認識していた程度でした。その曲が7年後に改めて「いい曲だ」と認識したのですから、音楽というのは楽曲の良さだけでなく、その曲を聴くシチュエーションがいかに大事かということを思い知りました。
最後に当時のチャートをみていきましょう。「セイ・ユー・セイ・ミー」は1985年12月21日付ビルボードHOT100で1位に輝き、その後年末年始のフローズンチャートを挟んで1986年1月11日付まで4週連続で首位を守りました。この時代は少し洋楽熱が落ちていて、チヤート上位の曲もよく分からない曲が目白押しですが、22位にグロリア・エステファンと組む前のマイアミ・サウンド・マシーンのシングル曲「コンガ」がランクインしているのが目を引きました。1986年の初めまでこんな状態が続きますが、来年も引き続き30年前のヒット曲を綴っていきますので、どうかよろしくお願いします。

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