30 Years Ago Now And Then
2014

    
1984年1月21日付
第1位 Owner Of A Lonely Heart - Yes
1984年の冬は、滅多に雪が積もらない浜松でも昼間から雪が積もった珍しい年でした。俗に五九豪雪と言われる記録的な豪雪の記憶とともに、今回紹介するイエスの「ロンリー・ハート」が思い出されます。当時、高校2年生だった私は、ボート部の冬の陸上トレーニングに精を出していたのですが、その年の冬からジムでのウェイト・トレーニングが新たに加わりました。湖上に艇を出せない冬は校庭でトレーニングを行うのですが、ジムは学校から離れた場所にあり、自転車で往復していたわけです。そのジムにはBGMとしていつも有線放送が流れており、それもほとんどが洋楽の最新ヒット曲で、ウェイト・トレーニングは苦手でしたが、その有線放送を聴きたいがために、いやいやながらジムに通っていたわけです。で、1月20日前後のある日、浜松としては異例の白昼堂々の積雪があり、「今日はジムに行かんでもいいら〜?」などとチームメイト達と話していると、顧問から冷酷な一言「自転車で行けないならバスで行け」。泣く泣く、寒空の中をバスに乗ってジム通いするハメになりました。その時にジムの有線放送でかかっていたのが、当時大ヒットしていたイエスの「ロンリー・ハート」というわけです。
この曲は、なんといっても元バグルスのボーカリスト、トレヴァー・ホーンが手掛けたサンプリングが特徴です。のっけからこもったドラム連打のサンプリングで始まるのですが、このこもった感じが、直後のエレキギターやスネアドラムの音抜けの良いサウンドと好対照となっており、「うわっ、いい音」とついつい騙されてしまうわけです。またオーケストラが一斉に楽器を鳴らしたような「ジャン!」というサンプリングも、この後の多くの音楽で真似されました。私としては、原題の「Owner」という言葉がいたく気に入り、邦題では縮めて「ロンリー・ハート」と呼ばれているのを、わざわざ格好をつけて「オウナー・オブ・ア・ロンリー・ハート」とこの曲のことを呼んでいたのも今となっては懐かしい思い出です。
「ロンリー・ハート」は1984年1月21日付ビルボードHOT100で1位に輝き、翌週と合わせて2週連続1位となりました。メンバーの合従連衡を繰り返したイエスにとっては唯一の全米ナンバーワンヒットで、今でもCMなどで耳にすることのある超有名なナンバーとなっています。また、同時期にチャートを賑わせていた曲には、カルチャー・クラブの「カーマはきまぐれ」やロマンティックスの「トーキング・イン・ユア・スリープ」があり、これらの曲も同様に浜松の雪景色を連想させます。
1984年2月25日付
第1位 Jump - Van Halen
ジャーニーのアルバム「エスケイプ」は、ジャケットに記載されたタイトルが簡単に読めないleet表記で知られていますが、1984年に発表されたヴァン・ヘイレンのアルバム「1984」も、leet表記ではありませんが、簡単にアルバムタイトルが読めませんでした。というのもジャケットに載っているタイトルと思しき文字は「MCMLXXXIV」。強引に読むと「マクムルックシヴ???」。あとでローマ数字と知らされて納得したものでした。さて、そのアルバムからのファースト・シングルカットが、今回紹介する「ジャンプ」です。
天才的なギタリストとして知られ、マイケル・ジャクソンの「ビート・イット」の間奏でギターソロを弾くエドワード・ヴァン・ヘイレンが、この曲ではキーボードを弾きまくり、間奏のソロまで弾いてしまうという、今までのヴァン・ヘイレンでは考えられない曲でした。キーボードがフィーチャーされている分、曲調はポップで、NHKの朝ドラ「あまちゃん」の中で使われても違和感を感じない仕上がりとなっています(ちなみに、「火を飛び越える」シーンの中で、駅長のカラオケがオーバーラップするのですが、そのカラオケの曲が「ジャンプ」です)。この後、エドワード・ヴァン・ヘイレンと音楽性の違いで仲違いするヴォーカルのデヴィッド・リー・ロスが、PVで生き生きと歌っているのも、この曲が彼の音楽性あるいは性格に合っているためではないでしょうか。
アルバム「1984」の収録曲の中では、私は「ジャンプ」より「パナマ」の方がお気に入りなのですが、「パナマ」はシングル・カットされたものの全米10位には届かず、このコーナーでも改めて取り上げるのは苦しいので、ここでちょっとだけ触れておきます。「パナマ」は、従前のヴァン・ヘイレンらしいロック寄りの曲で、特に私は間奏部分が気に入っています。当初はエディの普通のギターソロなのですが、途中でギターのヴォリュームを下げ、ベースとドラムのリズム隊が前面に出て、エディが低い音で弾くフレーズがたまりません。そこからブリッジで徐々に盛り上がり、Aメロに戻って例のリフをガンガン弾く感じもいいなぁと思います。
さて、アルバム「1984」は彼ら自身の中で最も売り上げの多いアルバムで、シングル「ジャンプ」も彼ら自身唯一の全米1位を記録しました。1984年2月25日付ビルボードHOT100で、先週までトップだったカルチャー・クラブ「カーマ・カメレオン」に代わって首位に立つと、同年3月24日付チャートまで5週連続1位をキープしました。今でもギター小僧を魅了するヴァン・ヘイレンを代表する1曲であることは間違いないでしょう。
1984年3月10日付
第3位 Girls Just Want To Have Fun - Cyndi Lauper
今月の曲は、ネーナの「ロック・バルーンは99」にするか、シンディ・ローパーの「ハイスクールはダンステリア」にするか迷いました。「ロック・バルーン」の方は曲の出だしのほのぼの感が、3月の春霞のような感じで、大いに季節感があり捨て難かったのですが、類似コーナーで一度取り上げたこともあるので、今回はシンディ・ローパーをご紹介します。それにしても原題の「Girls Just Want To Have Fun」がどうして「ハイスクールはダンステリア」になってしまったのか、またこの曲が収録されている「She's So Unusual」が「ニューヨーク・ダンステリア」と邦題が付けられて日本で発売されたのか、まぁそういう時代だったんですね。ちなみに、この2つのタイトルは、シンディ・ローパー自身からクレームがついて、それぞれ原題のカタカナ表記に改められています。
曲調の方は、華やかな音のシンセサイザーを多用したダンス・ナンバーで、シンディ・ローパーのちょっとはちゃめちゃなヴォーカルが少しおちゃめな雰囲気をプラスしています。また、当時はディスコで踊りやすいように曲の時間を長くして「12インチ・シングル」として発売するのが流行っていましたが、この曲も例に漏れずリリースされました。そちらのバージョンの方は、よりリズム隊が強調されたアレンジになっており、この曲の持つ雰囲気によりマッチしていたように思います。ところでこのころ12インチ・シングルが出回ったことで、レコードを手でぐちゃぐちゃ動かす「スクラッチ」というテクニックをDJがやり始め、やがてヒップ・ホップへとつながっていくという流れができました。
チャートアクションを記しますと、ビルボードHOT100の1984年3月10日付で最高位2位を記録し、翌週も2位をキープ。先月紹介した「ジャンプ」に阻まれて全米1位にはなりませんでしたが、彼女のメジャー・デビュー・シングルとしては上々の売り上げでした。この週のその他のトップ10シングルとして話題に挙げたいのは、冒頭に触れたネーナが3位、マイケル・ジャクソンの「スリラー」が4位、ジョン・レノンの死後にリリースされた「ノーバディ・トールド・ミー」が6位、ユーリズ・ミックスの特徴が良く出ているマイナー・コードの「ヒア・カムズ・ザ・レイン・アゲイン」が8位、ブリティッシュ・インベイジョン現象といわれたカルチャー・クラブの「カーマはきまぐれ」が10位と多種多様な曲がランクインしていました。そのうちの9位の曲は来月紹介したいと思います。
1984年4月7日付
第1位 Footloose - Kenny Loggins
1984年4月に、ついに高校の最終学年となった私は、中だるみだった高校2年生の1年を反省し積極的に生きようと心に決めました。クラス再編成の結果、2年の時に比べて自分にとって居心地が良くなり、私生活も充実したものになりました。この年の秋に、自分の高校の名物行事である運動会があるわけですが、その運動会名物の「ショータイム」に深いかかわりがある曲が、今回紹介する「フットルース」です。「ショータイム」というのは、1年生から3年生まで縦割りでダンスなどの出し物を披露する場なのですが、7分間という限られた時間の中でストーリー性を出すということで、バックにかける音楽が重要な要素となります。その音楽の編集を引き受けたのですが、ダブルラジカセを駆使して、いい感じに曲をシームレスでつなげるのが腕の見せ所でした。デュラン・デュランの「ザ・リフレックス」から始めて、ブラームスのハンガリー舞曲第5番ト短調と続けて、最後がこの「フットルース」。ご存じの通り、若者がダンスで世間に立ち向かうという映画の主題歌ですので、そのショータイムの出し物にぴたっとはまってラストは盛り上がったのを覚えています。
「フットルース」の演者はケニー・ロギンスですが、彼はこの映画の主題歌を手掛けたことで大ブレークし、その後のトップ・ガンも含めて、80年代の映画主題歌といえばこの人みたいな感じになってしまいました。私は、ドゥービー・ブラザーズの名曲「ホワット・ア・フール・ビリーブス(邦題は「ある愚か者の場合」)」をマイケル・マクドナルドと共作したあたりから知っていましたので、映画音楽の第一人者みたいな位置づけには違和感がありましたけどね。ま、とにかく商業的なキャッチーな曲を書かせたら、その当時は右に出るものはいないという感じでした(90年代の小室哲哉みたいなもの?)。その後の動静はほぼ知りませんが、ウィキペディアによると、今世紀になってから原点に戻ってロギンス&メッシーナを再結成したらしいです。
さて、同名の映画の大ヒットを受けて「フットルース」は1984年3月31日付ビルボードHOT100で頂点に立つと、3週連続で全米第1位を記録しました。この映画からは、ケニー・ロギンスが歌う似たような曲の「アイム・フリー」のほか、ボニー・タイラーの「ヒーロー」(麻倉未稀が歌う日本語カバーは「スクール・ウォーズ」の主題歌)、デニス・ウィリアムズの「レッツ・ヒア・イット・フォー・ザ・ボーイ」、マイク・レノとアン・ウィルソンのデュエットによる「パラダイス〜愛のテーマ」等々、いくつもの大ヒット曲が生まれました。
1984年5月5日付
第15位 Don't Answer Me - Alan Parsons Project
高校3年生の5月といえば、半生を振り返ってこれほど前向きだった時期はないと言っていいくらい充実した日々を送っていました。といっても高校生の本分である勉強をやった記憶はこれっぽっちもなく、部活と趣味に明け暮れた日々でした。部活の方は、インターハイ県予選の前哨戦で優勝し、「こりゃインターハイに出場できるかもしれんぞ」と夢を抱いてしまいました。趣味の方は、音楽を聴くだけではあきたらず、年が明けたころからシンガーソングライター活動を始め、その集大成として学校の文化祭でコンサートを開くことになり、毎日ピアノの前で練習しまくっていました。そんな時期にお気に入りだったのが、ザ・スクエア(現Tスクエア)のアルバム「アドベンチャーズ」と今回紹介するアラン・パーソンズ・プロジェクトの「ドント・アンサー・ミー」でした。
この曲は、ギターやキーボードだけでなく、ドラムにもエコーを効かせたいわゆる「フィル・スペクター・サウンド」で、その幻想的なサウンドが夏の前の淡い日差しによく合っていました。アルバム「アンモニア・アヴェニュー」からのシングル・カットで、アラン・パーソンズにとっては1982年10月の「アイ・イン・ザ・スカイ」(全米3位)に次いで全米トップ20にランクインした曲でした。1984年5月5日付ビルボードHOT100で最高位15位を記録。アラン・パーソンズはイギリス生まれなのですが、全英(最高位58位)よりも全米の方が売れるというのは、当時のブリティッシュ・インヴェイジョンの余波があったのかもしれません。ちなみにアルバム「アンモニア・アベニュー」も全米では最高位15位ですが、全英は最高位24位。イギリス人にとっては音楽がわかりやすすぎるのでしょうか?まぁ高校生だった私がはまるのですから、そうなのかもしれません…。
最後に当時のチャートアクションに触れておきましょう。トップを走っていたのはフィル・コリンズの「見つめて欲しい」で、この曲は映画「カリブの熱い夜」の挿入歌でした。その他ラジオでよく耳にしたのは、5位のリック・スプリングフィールドの「ラブ・サムバディ」で、これは当時の私の大好物であった商業ロックでした。また7位のカーズ「ユー・マイト・シンク」も分かりやすかったですねぇ。当時は英語の歌詞もばっちり聞き取れました。というわけで、分かりやすい曲を当時作っていた自分には、分かりやすい曲が耳に残ったという感じです。
1984年6月9日付
第3位 Oh, Sherrie - Steve Perry
先月に続いて30年前のネタを書きますが、高校3年生の6月は、前半で夢が散り、後半はけだるいヴォサノヴァが似合う月となってしましました。当時よく聴いていたのは、今月紹介する「Oh,シェリー」の他に、イーグルスの「サッド・カフェ」、竹内まりやさんの「水とあなたと太陽と」、そして来月紹介する予定の曲といったところです。「サッド・カフェ」は、解散してしまった(当時)イーグルスの最後のスタジオアルバムの最後の曲で、哀愁を帯びたドン・ヘンリーのヴォーカルが、夢破れた自分の心に沁みました。「水とあなたと太陽と」は、当時かなり聴きこんでいたアルバム「VARIETY」の一曲で、肩の力が抜けたヴォサノヴァ風のサウンドでした。冒頭にも記したとおり、目標がなくなってけだるい時期でしたので、当時の自分にぴたっとハマってしまいました。そして今月紹介する「Oh,シェリー」。加速感がついた5月とは一転して、スローダウン気味の時期でしたので、こんなミディアムテンポのラブバラードが耳に残りやすかったのでしょうね。
スティーヴ・ペリーは、ご存じのとおりジャーニーのヴォーカリストで、キーボードのジョナサン・ケインとともに、大ヒットしたアルバム「エスケイプ」や「フロンティアーズ」の曲のほとんどを作っています。それらの曲は覚えやすいメロディ・ラインで構成されていて、それがギターのニール・ショーンには不満だったのかもしれませんが、とにかく商業的に大成功を収めました。その流れが、彼のファースト・ソロアルバム「ストリート・トーク」につながっていて、中でも分かりやすい「Oh,シェリー」をシングル・カットしたわけですから、ヒットしないわけがないといったところでしょうか。彼のヴォーカルのストロング・ポイントである伸びやかな高音は、じめじめとした日本の梅雨を吹き飛ばすような勢いがありました。
それでは例によって当時のチャートをおさらいしておきます。「Oh,シェリー」がビルボードHOT100で最高位3位を記録した1984年6月9日付のチャートでは、1位がシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」でした。この曲もけだるい感じのミディアム・テンポの曲で梅雨にぴったりという感じです。2位がフットルースの挿入歌であるデニス・ウィリアムズの「レッツ・ヒア・イット・フォア・ザ・ボーイ」。4位は後にトップに立つデュラン・デュランの「ザ・リフレックス」。そして5位はナイト・レンジャーのスローバラード「シスター・クリスチャン」と、2位以外は割とおとなしめの曲が目立つ時期でした。圏外で注目は、11位のマドンナ「ボーダーライン」。次の週で最高位10位というスマッシュ・ヒットでしたが、80年代後半のマドンナ旋風を予感させる質の高い曲でした。
1984年7月7日付
第2位 Dancing In The Dark - Bruce Springsteen
1984年7月といえば、ロサンゼルス・オリンピックが開幕した月です。52年ぶりにアメリカでオリンピックが開催されたのですが、前回のモスクワ五輪のボイコット騒動が尾を引き、今度は東側陣営がボイコットするという冷戦真っ只中の時代を象徴する大会でした。音楽の面でいえば、ロサンゼルス・オリンピック公式アルバムがリリースされ、さすがショービズ王国という面々がクレジットされています。クリストファー・クロス、トト、フォリナーといったロック畑のアーティストも参加しており、後になってこのアルバムのクオリティの良さに気付き、ネットオークションでLPを手に入れました。さて、このようなオリンピックの時期は国家を見直す気分になるらしく、ブルース・スプリングスティーンもアメリカについて歌ったアルバム「ボーン・イン・ザ・USA」をリリースしました。タイトル曲である「ボーン・イン・ザ・USA」はロナルド・レーガンの大統領選挙で使用され、本来ベトナム戦争の影響について歌っているにも関わらず、「アメリカ万歳」的な意味に曲解され、何を隠そう私もその一人で「あんまりいい曲じゃないなぁ」と思ったものでした。
さて、そのアルバム「ボーン・イン・ザ・USA」からのファースト・シングルが今回取り上げる「ダンシング・イン・ザ・ダーク」です。タイトル曲の評価とは180度違い、この曲は私の中の「1984年ベスト・ソング」となっています。力強いドラムに、シンセサイザーのリフがカッコいいダンサブルナンバーで、この曲を聴くとついついステップを踏んでしまいます。後に12インチ・シングルとしてリリースされたバージョンは、よりバスドラが前面に出ており、曲が長くなったことも相まって、当時のディスコではヘビーローテーションになっていたことでしょう。またブルース・スプリングスティーンといえば、独特のしわがれ声でのシャウトが特徴ですが、ブリッジ部分で、彼のシャウトが聴けるのも好印象です。
それでは最後にチャートアクションについておさらいします。「ダンシング・イン・ザ・ダーク」は、1984年6月30日付ビルボードHOT100で2位にランクされると、同年7月21日付チャートまで4週連続2位となり、ついに首位にはなれませんでした。このコーナーでも最高位2位の曲を多く取り上げていますが、1位を獲った曲はどうも鼻につく感じがして、ついつい最高位2位の曲が好きになってしまうのでしょうね。ちなみに全米1位を阻止した曲は、デュラン・デュランの「ザ・リフレックス」と、プリンスの「ビートに抱かれて」で、ああなるほどと思ってしまいます(笑)。一方でアルバム「ボーン・イン・ザ・USA」の方は、それこそアメリカ家庭一家に一枚的な感じになり、全米1位を記録しただけでなく84週間もトップ10入りし続けました。アメリカ本国だけで1,500万枚もセールスした大ヒットアルバムとなっています。
1984年8月11日付
第1位 Ghostbusters - Ray Parker Jr.
ちょうど1年前のことになりますが、NHKの朝の連続テレビ小説(いわゆる朝ドラ)で「あまちゃん」が放映されていました。ある意味、三陸鉄道を舞台にしたドラマだったのですが、その三陸鉄道が開通したのが1984年。そしてドラマの中で北三陸駅(実際は久慈駅)の駅長・大吉がたびたび歌っていたのが、今回紹介する「ゴーストバスターズ」です。「あまちゃん」は80年代をリアルタイムで知る、今の40代にとっていろいろな小ネタを見つけられるドラマだったのですが、1984年の音楽として「ゴーストバスターズ」のような曲が象徴的に使われたのは、当時の音楽シーンにおける洋楽の地位を物語っているような気がします。やがてドラマは2011年3月11日の大震災を取り上げるのですが、三陸鉄道に乗務していた大吉がトンネルの中で被災し、外の状況を見るためにトンネルのレールの上を歩くシーンで、この「ゴーストバスターズ」を口ずさんでいました。不安な気持ちをこの曲で払拭するわけですが、この曲をここで使いたいがために、たびたび大吉にカラオケで歌わせていたのかなぁと感じました。
さて、私にとってもこの曲は、ある意味不安を払拭し、自分を元気づけるために使いました。翌年の大学受験を控え、地元の国立大学を志望校にしたのですが、前年度その大学に最も合格者を送り込んだのが名門藤枝東高校。私は生徒手帳に映画「ゴーストバスターズ」のシールを貼り付け、その下に手書きで「藤枝東バスターズ」と書き込み、大学受験に臨みました。結果志望校に合格し、今に至るということで、人生においては重要な曲なのかもしれません。曲自体は、「おばけ退治」の映画のテーマ曲で、他に「ウーマン・ニーズ・ラブ」などの名曲を手掛けたレイ・パーカーJr.としては、それほど大した曲じゃない気もするんですがね。
さて、最後に当時のチャートをおさらいしておきます。「ゴーストバスターズ」は1984年8月11日付ビルボードHOT100で1位となり、それから3週連続でトップを守りました。8月11日のチャートで2位は、それまで5週連続でトップだったプリンスの「ビートに抱かれて」。3位はジャクソン5の「ステート・オブ・ショック」と、上位が黒人アーティストで独占。ほんの少し前までは人種差別の影響が残っていたアメリカの音楽シーンも、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のおかげでMTVが積極的に黒人アーティストのPVを放映するようになり、このような結果になりました。一方で5位にはエルトン・ジョンの「サッド・ソング」がチャートインしていて、この曲を聴くと高校3年生の夏の終わりを思い出します。
1984年9月1日付
第1位 What's Love Got To Do With It - Tina Turner
高校3年生の秋といえば、そろそろ大学入試が心に重くのしかかるころで、お気楽に音楽を聴いている場合じゃないなと思ったらさにあらず。ビルボードチャートに飽き足らず、カシオペア、Tスクエア、松岡直也などのフュージョンや、角松敏生あたりの日本のロックなどにも手を染めていました。そんなわけで、かえってアメリカのメインストリームの音楽がお留守になり、その年の暮れまでチャート上位の音楽も印象が薄いなぁと思ってしまいます。そんな希薄な記憶の中で、1984年9月の洋楽といえば、ビルボードHOT100で3週連続1位を記録したティナ・ターナーの「愛の魔力」が耳に残っています。
後付けで知った話ですが、もともとティナ・ターナーといえば、元旦那のアイク・ターナーとコンビを組んで「アイク&ティナ・ターナー」として60年代から70年代の初めまで一世を風靡しました。その後旦那の家庭内暴力により離婚し、一時は話題にも上らない不遇な芸能生活を送りました。それが1984年になって突然の大ヒット。当時の私にとっては「ぽっと出の新人」のように感じたのは無理もありません。とにかく迫力のあるハスキーヴォイスが圧巻で、その独特なヘアー・スタイルとともに強く印象付けられました。結局、この「愛の魔力」は翌年のグラミー賞で、レコード・オブ・ザ・イヤーとソング・オブ・ザ・イヤーの主要2部門を獲得し、1984年を代表する曲として評価されました。
それでは、例によって当時のチャート状況を見てみましょう。「愛の魔力」は、1984年9月1日付ビルボードHOT100で1位に立つと、先ほども述べたとおり3週連続で1位をキープしました。2位は後に「愛の魔力」に代わってトップに立つジョン・ウェイトの「ミッシング・ユー」。3位はシンディ・ローパーのハードなナンバーである「シー・バップ」でした。上位20位あたりまで見回しても、あまり好きな曲は見当たらず、その当時は本当に全米チャートから離れていたんだなぁと感じます。ちなみに私が当時お気に入りだった曲は、角松敏生の「ガール・イン・ザ・ボックス」でした。
1984年10月27日付
第9位 I'm So Excited - Pointer Sisters
先月も記しているのですが、大学受験を控えた1984年秋は、日本のフュージョン音楽にハマっていた時期で、今月もちょっとそれに関連した楽曲を紹介したいと思います。当時、THE SQUARE(現T-SQUARE)やカシオペアといった人気のフュージョンバンドは、主にインストゥルメンタルの曲を演奏していました。しかし、イベントやライブでは目先を変えてヴォーカル入りの曲を演ることが多く、そんな時に決まって呼ばれるヴォーカリストにマリーンというフィリピン出身の女性ジャズ歌手がいました(多分、現在も現役)。で、彼女が「マジック」という元々はTHE SQUAREの曲をカヴァーし、TV-CMとタイアップしたこともありスマッシュ・ヒットを飛ばしました。そのシングル「マジック」のカップリングが「アイム・ソー・エキサイテッド」で、こちらも元々はポインター・シスターズの曲でした。シングルA・B面ともカヴァー・ソングとは、彼女もなかなかのやり手ですね。もちろん、今回紹介するのは本家の方の「アイム・ソー・エキサイテッド」ですが・・・。
もともと「アイム・ソー・エキサイテッド」は1982年リリースの「ソー・エキサイテッド」に収録されていた曲で、私が初めて聞いたのもこの時だったと思います。翌年ポインター・シスターズは「ブレイク・アウト」というアルバムをリリースしたのですが、折からのディスコ・リミックス・ブーム(12インチシングルが大量に世に出たのがこの頃)に乗って、「ブレイク・アウト」をリマスターして1984年に再リリースしました。オリジナル・ヴァージョンの曲順を入れ替え、「アイム・ソー・エキサイテッド」を新たに収録したこともあり、アルバムは大ヒットを記録し、翌年のグラミー賞で部門賞を2つ獲りました。1984年は彼女ら3人にとってピークにあった年で、全米トップ10に4曲も送り出し、「アイム・ソー・エキサイテッド」も1984年10月27日付ビルボードHOT100で最高位である9位を記録しました。この曲の中で私が最も気に入っているのはイントロ部分で、こういうオーソドックスなコード進行のロック系イントロは、分かっていても当時の自分を一撃で倒せる破壊力がありました。
それでは最後に当時のチャートを振り返っておきます。1位はスティービー・ワンダーの「心の愛」で、日本でもCMソングに採用されていたこともあり、飽きるほど耳にしました。3位はシカゴの「忘れ得ぬ君に」で、アルバム「シカゴ17」からの2枚目のリリース。例のデビッド・フォスターのサウンドとピーター・セテラの歌声で鉄板です。4位がプリンスの「パープル・レイン」で、ここまでの3曲はバラード調の曲ばかり。そうかと思えば6位にワムの「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」というおバカソングも入っていたりしていました。こうしてみると当時は邦題のついた曲が目立ちますね・・・。
1984年11月24日付
第3位 I Feel For You - Chaka Khan
共通一次までのカウントダウンが始まった1984年11月は、それまでのフュージョン系から再び洋楽に回帰した時期でした。そのきっかけとなる曲が、今回紹介するチャカ・カーンの「フィール・フォー・ユー」でした。とにかくイントロの「チャカ・チャカ・チャカ・チャカ・チャカ・カーン、チャカ・カーン」のフレーズにぶっ飛んでしまいました。それまでもスクラッチは角松敏生の12インチシングルで耳にしていたのですが、ラッパー・メリー・メルによる、演者の名前あるいは曲名の連呼は、それまでの音楽の常識を打ち破る斬新なものだったと思います。また、この曲はイントロが衝撃的で、とかくそのことばかり触れられがちなのですが、本編のメロディーも軽快で、敢えてプリンスのカバー曲をこのように味付けしたプロデューサーのアリフ・マーディンの手腕に脱帽です。また、効果的に使われているクロマティック・ハーモニカはスティービー・ワンダーによるもので、こちらは彼の「可愛いアイシャ」と並ぶハーモニカの名演だと思います。
さて、「フィール・フォー・ユー」が1979年にリリースされたプリンスの曲のカバーであることは既に記しましたが、そのプリンスも同じ週に第2位でチャートインしています。大ヒットしたアルバム「パープル・レイン」からの同名のシングル・カット曲で、こちらも1984年晩秋を印象づける1曲でした。「フィール・フォー・ユー」とは正反対の抒情的なバラードで、秋の夕暮れを見ながらウィスキーを飲みたくなるような曲です。この頃のチャート・アクションを紹介しておくと、「パープル・レイン」の方が若干早くヒットし、1984年11月17日と翌24日付のビルボードHOT100で最高位2位を記録。「フィール・フォー・ユー」は、紹介している1984年11月24日付のチャートで3位に上昇すると、3週連続でその位置を守りました(最高位3位)。ちなみにこの週の1位はワムの「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」で、さすがにこの曲はおバカすぎて、当時の私は好きになれませんでした。
1984年12月22日付
第1位 Like A Virgin - Madonna
「受験生の一秒は血の一滴」と言われていたころ、クリスマスも暮れも正月もない私の18歳の誕生日のチャートで、今後のポピュラーミュージックを席巻する女性アーティストが初めてトップに躍り出ました。その女性の名はマドンナ。それ以前に彼女の存在を知らなかった私は、「ライク・ア・ヴァージン」のイントロを聴いて、その音の虜になってしまいました。「ポップス界に新星現る!」そんな気がしました。その予想は当たり、彼女のリリースする音楽はことごとく1位に輝き、80年代後半以降のポップチャートを彩ったのは、みなさんご存じのとおりです。
一発で好きになった「ライク・ア・ヴァージン」のイントロ…。元シックのギタリスト、ナイル・ロージャースが奏でるリズムギターはキレがあり、特徴のあるベースラインとともに私に強烈な印象を残しました。ボーカルの方は、当時流行っていたシンディ・ローパーに似ているかなという感じで、いいとも悪いとも思いませんでした。やはりこの曲の魅力はリズム隊にあると今でも感じます。ところで、アルバム「ライク・ア・ヴァージン」をとっかかりに、彼女の前作である「バーニング・アップ」の収録曲を聞いていったのですが、その中でも「ボーダー・ライン」が特に気に入り、今でも「Spring Tour」のお供にしています。この曲のエンディングが、春の夕暮れを思わせるようなほわほわ感があり、旅の空で聞くと最高にハマりま す。
それでは、例によってチャートアクションを見てみましょう。「ライク・ア・ヴァージン」は1984年12月22日付のビルボードHOT100で全米1位に輝き、フローズン・チャートである翌週を挟んで1985年1月26日付チャートまで、6週連続でトップを維持しました。クリスマス・シーズンということで、その時にチャートインした曲の中には誕生日からクリスマスを思い出させる曲が入っていました。例を挙げると、8位の「ひとりぼっちのロンリーナイト」ポール・マッカートニーや、10位の「ヴァロッテ」ジュリアン・レノンがそれに当たります。こんな曲を聞きながら寒い冬の夜を過ごすというのも一興かもしれません。

2015年版へ
2013年版へ
目次へ