30 Years Ago Now And Then
2013

    
1983年1月8日付
第3位 Dirty Laundry - Don Henley
1982年にイーグルスが解散し、主要メンバーであるドン・ヘンリーとグレン・フライがそれぞれソロ・アルバムを発表しました。「恋人」に象徴されるグレン・フライのアルバム「ノー・ファン・アラウド」は甘くメロウな印象を受けるのに対し、ドン・ヘンリーのアルバム「アイ・キャント・スタンド・スティル」はハードな感じでした。その中でも今回紹介する2ndシングル「ダーティー・ランドリー」は、硬質なシンセサイザーとギターが印象的です。
さて、このコーナーでは毎月1曲ずつ30年前にリアルタイムで聴いていた曲を紹介しているのですが、「ダーティー・ランドリー」の意味を改めて調べると、「内輪の恥」だということを知りました。当時高校生だった私は、「ダーティー・ランドリー」と聞いて「きったないコインランドリー」を思い浮かべ、ドン・ヘンリーもヘンな事を歌うなと思っていました。実際は、芸能レポーターがしつこく芸能人を追いまわす(いわゆるパパラッチというやつ)ことへの批判を歌っているのですね。。。リリースから30年経ってようやく歌の真の意味を知ることができるのも、こうして1曲1曲取り上げていくメリットだと思います。そんなわけで、今年もコツコツと紹介していきますので、よろしくお願いします。
最後に、チャートアクションを記します。「ダーティー・ランドリー」は1983年1月8日付ビルボードHOT100で最高位3位を記録し、1月22日付チャートまで3週間そのポジションをキープしました。ちなみに当該週の1位は、イーグルスが「ニュー・キッド・イン・タウン」の中で揶揄したとされるホール&オーツの「マンイーター」。そうは言いながら「ダーティー・ランドリー」のイントロのコード進行が、彼らの1981年のヒット曲「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」に似ているのはご愛嬌ですね。で、2位はマイケル・ジャクソンとポール・マッカートニーのデュエット「ガール・イズ・マイン」というわけで、かなり強力な2曲にナンバーワンの座を阻止されました。また翌週以降の1位は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったメン・アット・ワークの「ダウン・アンダー」。これもなかなか越えられない壁になりました。
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1983年2月5日付
第1位 Africa - Toto
好きなアーティストのアルバムがリリースされ、そのアルバムからのシングル・カット曲が、徐々にビルボードのチャートを駆け上がっていく過程を見るのは、ファン冥利に尽きます。1983年には、そういう曲がついに頂点に上り詰めたことが2回ありました。そのうちのひとつが今回紹介するトトの「アフリカ」です。もうひとつの方は9月に紹介できる予定ですので、どうぞお楽しみに。さて、トトの「アフリカ」ですが、彼らの最高傑作とされているアルバム「TOTOW」(邦題は「聖なる剣」)の最後に収録されている曲で、このアルバムからのシングル・カット曲としては「ロザーナ」に続く第2弾でした。「ロザーナ」は昨年7月に述べたように、最高位が惜しくも第2位で、それだけに「アフリカ」がチャートのトップにランクされた週は、彼らのファンとして狂喜乱舞しました。
当時から、アルバムの中でも異質でちょっと地味な曲とファンに認識されていた「アフリカ」が、ビルボードで1位になった理由を私なりに考えてみました。ひとつはディスコミュージックやAORといったブームが下火になり、音楽ファンが次の波を求めていた時に、それまでじわじわと支持を広げていたワールド・ミュージック(特にアフリカ系)の流れを汲むこの曲に飛びついたのではないかと思います。この曲を作ったデヴィッド・ペイチには、アフリカのリズムと彼本来のメロディーラインをうまく統合したなぁと、今さらながら感心します。ふたつめは、おそらく歌詞の良さではないかと思います。特に2番のキリマンジャロが出てくる部分に、アフリカの大地に降る雨を思い描いた人が多かったことでしょう。私も、この曲を聴いてアフリカのケニアやタンザニアに行きたくなりました(まだ夢は実現していないのですが…)。
例によって最後はチャートアクションです。「アフリカ」は、1982年10月30日付チャートでビルボードHOT100に初登場75位でランクイン。以降、61位→50位→37位→33位→27位と一歩一歩ランキングを上昇し、1982年12月11日付チャートで18位に上昇。既述の「ウィークエンドポップス」のランキング発表は20位からですので、この時になって初めて私は「アフリカ」がランクを上げていることが分かりました。その後の上昇テンポはかなり遅くなり、16位→14位→12位にランクされました。1983年1月15日付チャートでベストテン圏内の7位に上がると、翌週は5位、その次は2位と勢いを見せ始め、ついに1983年2月5日付で第1位となりました。しかし当時のメン・アット・ワークの勢いはすさまじく、「アフリカ」がトップを取る前に3週連続で1位だった「ダウン・アンダー」が、2月12日付チャートでトップに返り咲き、「アフリカ」の天下は1週間だけとなりました。しかし、ちょうど同じ月に開かれた1983年のグラミー賞に、このチャートアクションが影響したのかどうか、トトは「ロザーナ」で最優秀レコード賞、「TOTOW」で最優秀アルバム賞を獲り、主要4部門のうちの2部門を制覇。その年のグラミーは「トトの年」となりました。
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1983年3月19日付
第8位 Separate Ways - Journey
私が高校1年生の時まで、浜松で聴くことができる民放FM局といえばFM愛知でした。高校の入学祝いでシステムコンポを買ってもらい、同時に5素子のFMアンテナも手に入れ、比較的クリアに豊橋の電波を拾うことができるようになりました。それまでは、ラジカセのロッドアンテナを窓の外に伸ばし、それでも雑音まじりの放送で我慢するしかありませんでした。そして1983年3月。翌月に開局を控えた静岡エフエム放送(=FM静岡;現在の愛称はK-MIX)が試験放送を開始しました。その試験放送は、一日中音楽を流し続け、6〜7曲ごとに「JOKU-FM、こちらは静岡エフエム放送です」とステーションコールをするだけの番組でした。しかし、当時の洋楽ヒット曲が次から次へと流れるという夢のようなプログラムで、ひょっとするとK-MIX史上で私にとって最も好ましい時期だったかもしれません。で、この試験放送時代に頻繁にかかっていたのが、今回紹介するジャーニーの「セパレイト・ウェイズ」でした。
この曲は大ヒットしたアルバム「エスケイプ」に続いてリリースされた「フロンティアーズ」からのファースト・シングルカットで、アルバムどうしのセールスとしては「エスケイプ」にやや劣りますが、いずれもプラチナセールスを記録しており、ロックファンで知らない人はいない大ヒットアルバムです。「セパレイト・ウェイズ」も含めて、サウンドは「エスケイプ」収録曲に比べて、よりハードかつ重厚な音になっており、当時のアマチュア・バンドはこぞってコピーしたものでした。「セパレイト・ウェイズ」自体は、シンセサイザーのイントロがまず耳に残り、スティーヴ・ペリーのハイトーン・ヴォーカルとニール・ショーンによる後半部のギター・ソロに心を奪われるという、いかにもジャーニーらしい曲に仕上がっています。
ビルボードHOT100では、1983年3月19日付チャートで8位に上昇し、その後同年4月23日付チャートまで6週連続8位という珍記録を持っています。当時の1位は、マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」で、お化けアルバム「スリラー」の大旋風が吹き荒れる兆しを見せていました。その他、カルチャー・クラブの「君は完璧さ」や、デュラン・デュランの「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」といった、当時流行ったイギリスのニューロマンティックの面々も上位に顔を出しており、時代が偲ばれます。
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1983年4月23日付
第3位 Mr. Roboto - Styx
2009年のアカデミー賞授賞式でのこと、短編アニメーション賞を受賞した加藤久仁生さんが所属会社のROBOTに感謝の言葉を述べた後、「どうもありがとう、ミスターロボット」と挨拶を締めくくり、会場の笑いを誘いました。このエピソードは、今回紹介する「ミスター・ロボット」の歌詞を知らなければ、なんのことかさっぱりわからないことで、今もなおアメリカのショービズ界でこの曲がよく知られているということを証明する出来事だと思います。とにかくこの曲がリリースされた当時は衝撃的でした。バリバリのロック・バンドであったスティックスのボーカルであるデニス・デ・ヤングが日本語で「ドモアリガット、ミスターロボット」と歌っているのです。それもツクツク×4と軽快な16連のハイハットのリズムに合わせて。ロボットを歌っている曲らしくシンセサイザーも前面に出ており、とにかく派手な曲でした。そんな耳に残るこの曲は、その後映画やドラマでも多用され、最も新しいところでは2012年公開の「ロボジー」でミッキーカーチスの別名である五十嵐信次郎名義でテーマ曲としてカヴァーされています。これも70歳を超えるカーチスさんが派手にロックしていて、味わいがありました。
さて、この曲が収録されたアルバムは「キルロイ・ワズ・ヒア」というコンセプト・アルバムで、このアルバムにはもう一曲思い出深い大好きな曲が入っているのですが、それは2か月後のこのコーナーで述べたいと思います。最後に、この週のチャートを簡単に紹介すると、1位はデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズの「カモン・アイリーン」で、この曲は翌週には2位のマイケル・ジャクソン「ビート・イット」にトップを奪われます。5位にも「ビリー・ジーン」がチャートインしており、この頃のマイケル・ジャクソン旋風はもの凄いものでした。8位には先月紹介した「セパレート・ウェイズ」が頑張っていて、「ミスター・ロボット」とともに“ド派手なシンセサイザー・ロック”の牙城を守っていました。
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1983年5月7日付
第1位 Beat It - Michael Jackson
先月の終わりにも少し触れましたが、1983年初頭のアルバム「スリラー」旋風はもの凄く、「ビリー・ジーン」が7週連続で全米1位に輝くと、1週挟んで今度は「今夜はビート・イット」が3週連続で全米1位になりました。アルバムには9曲が収録されていましたが、そのうち7曲がシングルカットされ、そのたびに相乗効果でアルバムも売れるという現象もあり、歴史上最も売れたレコード・CDとしてギネスより認定されています(総販売枚数1億枚以上!)。ちょっとハスに構えたこのコーナーでは、あまりにもミーちゃんハーちゃんした曲は取り上げないのですが、これほどのヒットを記録しているとあっては取り上げざるをえないでしょう。
というわけで、7枚のシングルカット曲のうち、私がもっとも気に入っている「今夜はビート・イット」を取り上げたいと思います。なんといってもこの曲は、アルバム「スリラー」の中でも最もロックよりに振った曲でして、その源はイントロから軽快にかっとばすスティーヴ・ルカサーのカッティング・ギターと、間奏におけるエドワード・ヴァン・ヘイレンのギター・ソロにあります。それをささえるリズム隊も、ベースはスティーヴ・ルカサーが一人二役で演じ、ドラムスは同じくトトのジェフ・ポーカロと気合が入っています。ついでにシンセサイザーもスティーヴ・ポーカロが参加しており、バックバンドを務めるトトにマイケル・ジャクソンが歌と踊りを披露するという体になっています。プロデューサーのクインシー・ジョーンズもよくやるねという感じです。
大ヒットしたこの曲ならではのエピソードは、翌年発表されたアル・ヤンコビックによるパロディ・ソング「今夜もイート・イット」を産んだことです。有名なPVも緻密にパロディー化されていて、高校時代の私はこれが大好物でした。なんといっても本家のアルバム「スリラー」は買いませんでしたが、アル・ヤンコビックのアルバム「スリだー」は買ってしまったほどですから。。。なお、「今夜もイート・イット」と、同じくマイケル・ジャクソンの「BAD」のパロディ・ソング「FAT」は、マイケル自身による公認パロディ・ソングとなり、後にアル・ヤンコビック自身がマイケル・ジャクソンの「リベリアン・ガール」のPVに出演までしています。
さて、この週(5月7日付ビルボードHOT100)のチャートには10位にトトの「ホールド・ユー・バック」がランクインしていました。こちらの曲ではスティーヴ・ルカサー自身がリード・ヴォーカルをとり、間奏では泣きのギター・ソロも弾いていますが、アルバイト的にやった「ビート・イット」の大ヒットの前には、その奮闘ぶりもかすんでしまうのでした。
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1983年6月18日付
第7位 Don't Let It End - Styx
先々月に紹介したスティックスの「ミスター・ロボット」は今でも語り継がれるほどの衝撃を残しましたが、同じアルバムの中に「愛の火を燃やせ」(原題「Don't Let It End」)というミディアムテンポのバラードが収録されていました。1979年12月に全米第1位を獲得した「ベイブ」や1981年4月に全米第3位を記録した「ザ・ベスト・オブ・タイムズ」の流れを汲むスティックスらしい曲でした。なんでも「ミスター・ロボット」アルバム(原題「Kilroy Was Here」)からの1stシングルとしてリリースされることが決まっていたものの、レコード会社(A&M)の意向で、土壇場で「ミスター・ロボット」に差し替えられたのだそうです。まぁインパクトを考えると妥当な選択ですが、楽曲としては「愛の火を燃やせ」の方が私は好みです。
さて、私はこの曲を聞くと高校時代の部活の練習場だった佐鳴湖を思い出します。それも梅雨時特有の曇り空で、時刻は黄昏時の風景を。この曲がヒットした頃は、私の生活は部活一色で、湖面を何度も往復しつつ息を整えながらそんな空を見ていたのだと思います。この曲の間奏で流れるかっこいいギターソロを頭の中で何度もリフレインしながら、辛く単調なボートの練習に明け暮れる毎日でした。「愛の火を燃やせ」は翌月1983年7月2日付ビルボードHOT100で最高位6位を記録しますが、ベストテン内にランクインしていたのはちょうど日本の梅雨時。季節の記憶まで刷り込まれるほどお気に入りだったのだと今更ながら思います。
最後に1983年6月18日付ビルボードHOT100の上位にランクしていた曲を紹介します。1位は映画タイアップの「フラッシュ・ダンス〜ホワット・ア・フィーリング」ですが、さまざまなアーティストに大きな影響を及ぼしたと言われるデヴィッド・ボウイの「レッツ・ダンス」がしぶとく3位に残っていました。全米1位も獲得し自身最大のヒットとなったこの曲のために、逆にその後のデヴィッド・ボウイ自身が音楽的に悩むことになったと「ベストヒットUSA」で小林克也さんは言っていました。凡人には考えも及びませんが、大ヒット曲にも良い面と悪い面があるのでしょう。
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1983年7月9日付
第1位 Every Breath You Take - The Police
高校2年生だった1983年の夏。FMラジオなどで洋楽のカウントダウン番組を聴くと決まってこの曲が最後にかかっていました。その曲はポリスの「見つめていたい」。どのカウントダウン番組でも最後にかかるので、まるでその番組のエンディングテーマのようになっていました。このごろよく思うのですが、カウントダウンで1位に相応しい曲はBメロというかブリッジの部分がいいものが多いですね。そこで、番組を締めるナレーションがオーバーラップして、予定調和して終わっていくのがまたいいんです。
さて、ポリスはいわずとしれた3ピースのバンドで、ベース兼ヴォーカルのスティング、ドラマーのスチュアート・コープランドそしてギターのアンディ・サマーズのミニマム・ユニットなんですが、とても3人で演奏しているとは思えないサウンドを作り出しています。この「見つめていたい」でも、アンディ・サマーズのギターが独特のリズムを刻み、ピッキングの音がいいアクセントになっていて、ちょっとばかりサウンドに隙間があるところが味わい深い仕上がりとなっています。同様にスチュアート・コープランドは切れのいいフィルインを叩き、この曲をぐっと締めています。一方で、スティングのベースは、ポリス初期の頃はかなりメロディを弾いていましたが、この頃になると単音でリズムを刻むという感じで、ポリスの強みであるスティングのヴォーカルを生かすアレンジになっています。終盤にはピアノの音が入ってきますが、これもメロディを奏でるわけではなく、スティングの声の邪魔にならないようリズム楽器のように使われています。まぁとにかくこの頃のポリスは、スティングのヴォーカルを聴かせるサウンド作りをしていて、それが成功につながったのでしょう。
「見つめていたい」は、1983年7月9日付ビルボードHOT100で、前週までの1位だったアイリーン・キャラの「フラッシュダンス」に代わってトップに立ち、同年8月27日付チャートまで8週連続で首位を守りました。これが冒頭の思い出につながっているのですが、1983年の夏といえば真っ先にこの曲が思い出されるのも無理もないところです。1983年初頭にはあれほど猛威を振るっていたマイケル・ジャクソンの「スリラー」も、この期間は「スタート・サムシング」の5位が最高で、勢いに翳りが見え始めたころでした。
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1983年8月27日付
第14位 Lawyers In Love - Jackson Browne
1983年、私が高校2年生だった時のクラスにはきわだった思い出がなく、ほとんど空白の一年と化しています。いわゆる中だるみの高二時代を過ごしていたわけですが、数少ない思い出の中に10月の修学旅行があります。現地で聞けるようにと、わざわざ編集したテープが残っていて、そのテープに収録されている曲は、今でも秋になると聞きたくなる曲ばかりです。当時流行っていた曲を集めたテープなのですが、そのころの日本の洋楽チャートと全米チャートは1ヶ月くらいのズレがあり、今回紹介するジャクソン・ブラウンの「愛の使者」も、アメリカ本国では盛夏にヒットチャートを昇っていった曲だと再認識した次第です。
ジャクソン・ブラウンといえば1977年の「孤独のランナー」が有名ですが、その当時の私はまだその曲を知らず、彼の新曲を先入観なしで聞いて「あぁいい曲だな」と思った覚えがあります。その翌年、私は「第一次70年代ブーム」を迎え、「孤独のランナー」や、彼のイーグルスとのつながりも知り、改めて「愛の使者」を評価したものです。この曲の聞きどころとしては、中盤以降のシンセサイザーをフィーチャーした間奏からAメロへの盛り上がりだと思うのですが、全編で聞ける教科書通りのピアノアレンジも、当時曲作りを始めていた私にとっては勉強になりました。
さて、この曲とセットで思い出すのはジョージ・ベンソンの「愛のためいき」ですが、調べてみるとこの曲はアメリカでシングル・カットしていないらしく当時の全米チャートに入っていません。ノエビア化粧品のCMソングに使われたこともあり、日本だけのドメスティック・ヒットだったんですね。こちらもアレンジのお手本というべき曲で、特にベースとハイハット・シンバルだけをバックに、ジョージ・ベンソンが自慢のヴォーカルを聞かせるところにハマってしまいました。当時の私はスティックスの「ミスター・ロボット」とかこの曲のように、16拍打ちのハイハットがよっぽど好きだったんでしょうね。
さて、再び「愛の使者」に戻って、チャートアクションを振り返ります。今回紹介した1983年8月27日と翌週の9月3日付ビルボードHOT100で14位、そして次の9月10日付チャートで13位に上がって、これが最高位。その翌週も13位でしたが赤丸が取れ、9月24日付チャートでは19位にダウンという流れでした。もっともジャクソン・ブラウンという人は、アルバム・オリエンテッドなアーティストですので、この曲を収録している同名のアルバムは長期にわたって売れ続け、最高位8位ながらプラチナ・ディスクを記録しています。
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1983年9月24日付
第1位 Tell Her About It - Billy Joel
1983年当時アメリカの音楽チャート誌には、このコーナーで紹介している「ビルボード」と並んで「キャッシュボックス」というものがありました。今でこそ全米チャートといえばビルボードですが、その当時はFM情報誌「FM STATION」にキャッシュボックスのチャートが毎週掲載されており、日本ではある意味キャッシュボックスのチャートの方が馴染みがあったかもしれません。当然FMのカウントダウン番組もビルボード派とキャッシュボックス派に分かれており、当時高校2年生だった私が毎週エアチェックしていたFM愛知の金曜夕方のカウントダウン番組「THE HOT '83」はキャッシュボックスのチャートを発表していました。
9月に入ると、当時もっとも私が敬愛していたビリー・ジョエルの「イノセント・マン」アルバムからのファーストシングルカット曲「あの娘にアタック」がチャートインしてきました。「あの娘にアタック」と競り合いながらチャートを上昇していたのがエア・サプライの「渚の誓い」。ある週では「渚の誓い」が上位にきて、次の週では「あの娘にアタック」が差し返すなど、熾烈な上位争いが繰り広げられました。9月の最後の金曜日、いちものとおりエアチェックしていると、いつまでたっても「あの娘にアタック」が出てきません。2位の発表まできて「そろそろかな?」と思いましたが、2位は「渚の誓い」。「え、ひょっとして?」と思う間もなく1位の発表があり、見事ビリー・ジョエルの「あの娘にアタック」が頂点に上り詰めました。
さて、ビリー・ジョエルのディスコグラフィーにおけるアルバム「イノセント・マン」の位置づけを私なりに解釈するとこんな感じです。「ストレンジャー」、「52番街」でグラミー賞の主要部門を獲得し、地位と名声を得たビリー・ジョエルがちょっとワガママになって、バックバンドの仲間たちと昔から好きなロックをやりたいと発表したのが「グラス・ハウス」。彼のファンの中ではこのアルバムに対し賛否両論ありますが、中学生の私はイチコロでした。その後、つなぎで昔のあまりメジャーでない曲を集めたライヴアルバム「ソングズ・イン・ジ・アティック」をリリースし(このアルバムも音が良くてお気に入りですが)、バイク事故や離婚があって落ち込んで、社会派に走り「ナイロン・カーテン」をリリースするも、いい曲だけどあんまり売れないという挫折を味わいました。その後、彼女ができ、浮かれた状態で「少年時代好きだったモータウンをやっちゃうよ!!」ってな感じで発表したのが「イノセント・マン」で、その中でも最もシュープリームスっぽい「あの娘にアタック」が1位になったということでしょうか?80年代に、モータウンっぽい曲を新しめの解釈で発表するというパターンはあり、ホール&オーツの「マンイーター」(1982年)や、フィル・コリンズの「恋はあせらず」(1982年)がヒットを記録していました。その背景が「あの娘にアタック」の大ヒットにつながったのかもしれません。
最後にチャート状況ですが、「あの娘にアタック」は今回紹介した1983年9月24日付ビルボードHOT100で第1位となりましたが、翌週には2位に落ちて1週だけの天下でした。ライバル「渚の誓い」は、ビルボードでは、その週は5位。映画「フラッシュダンス」絡みでマイケル・センベロの「マニアック」が先週までのトップから落ちて4位。そしてボニー・タイラーの「愛のかげり」が2位となっていました。この辺のお話はまた来月に触れたいと思います。
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1983年10月8日付
第1位 Total Eclipse Of The Heart - Bonnie Tyler
古今東西、歌の題名はいろんなものがありますが、「total eclipse」(皆既日食)がタイトルに入った歌はこれが初めてじゃないかと思います。「Total Eclipse Of The Heart」、邦題は「愛のかげり」。直訳「心の皆既日食」。タイトルからして大袈裟なムードが漂いますが、ボニー・タイラーさんが唄うこの曲調は、タイトルにも増して大袈裟でした。彼女はもともとハスキー・ボイスですので、ボーカルに迫力があるのですが、間奏部分はシンセサイザーによるパイプオルガン風サウンド、それに続くコーダ部分の盛り上がりと、過剰な演出が光る楽曲となっています。また、イントロのピアノはメゾピアノ、サビに至る部分はクレッシェンド、サビから先はデクレッシェンドしていき、間奏はフォルテシモ、コーダはフェードアウトではなくデクレッシェンドと、一体どこにボリュームを合わせればいいんだってな曲でもありました。
さて先月記したように、ちょうど同時期のヒット曲にエア・サプライの「Making Love Out Of Nothing At All」(邦題「渚の誓い」)という、これまた大上段に構えた曲がヒットしており、当時は「大袈裟対決」と言われていました。ちなみにこの2曲はどちらもジム・スタインマンが曲を書いており、当時全米1位を争っていた曲どうしですので、彼も飛ぶ鳥を落とす勢いだったのでしょうね。結局この2曲の対決は「愛のかげり」の圧勝という結果で終わり、「渚の誓い」は3週連続2位と健闘するも最後までトップをとれない悲劇の曲となりました。
その結果をふまえて、最後にチャートアクションをまとめます。「愛のかげり」は1983年10月1日付ビルボードHOT100で、ビリー・ジョエルの「あの娘にアタック」に代わって首位になり、その週から4週連続でトップを維持しました。一方の「渚の誓い」は同年10月8日付チャートで最高位2位となり、3週連続でその位置をキープするも10月29日付チャートで力尽き6位にランクダウンしました。つまり3週連続で1位・2位が変わらなかったということになります。そのような状況を打破したのは、御大ケニー・ロジャースとカントリー界のお局さまドリー・パートンのデュエットである「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」で、10月22日付チャートで3位に上昇すると、翌週トップに立ちました。日本ではまず知られていない曲ですが、アメリカではカントリーの王道みたいな曲は根強い人気があるようです。
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1983年11月12日付
第16位 Tonight I Celebrate My Love - Peabo Bryson/Roberta Flack
私が「愛のセレブレーション」を知ったのは、ヒットしていた1983年当時ではなく、6年後の平成元年のことでした。例の小柳ルミ子と大澄賢也の結婚披露宴で二人がこの曲に合わせて踊ったことから、「愛のセレブレーション」がプチ・リバイバルヒットし、私が知ることとなったのです。二人のダンスはともかく曲自体はいい曲だと思い、調べてみるとピーボ・ブライソンとロバータ・フラックのデュエットでした。ロバータ・フラックの方は「やさしく歌って」や「愛のためいき」が好きでよく聴いていましたし、ピーボ・ブライソンも「愛をもう一度」がスマッシュヒットしていましたので名前は聞いたことがありました。ところで邦題の「愛をもう一度」は、まったく別の曲で前年にセルジオ・メンデスがリリースしており、今回これを書くにあたって再調査した結果、セルジオ・メンデス・バージョンの方をピーボ・ブライソンが歌っていると勘違いしていました。原題はセルジオ・メンデスの方は「Never Gonna Let You Go」で、ピーボ・ブライソンの方は「If Ever You're In My Arms Again」とまったく違うので、当時のピーボ・ブライソン担当のレコード会社の人に「なんだかなぁ」という感じを抱いてしましました。
さて、「愛のセレブレーション」ですが、小柳・大澄結婚披露宴の後、披露宴で二人が歌う定番ソングとなり、私も何度かそのこっぱずかしい光景を目にしています。まぁ歌詞自体は結婚式で歌うに相応しいといえば相応しいのですが、「さぁ今から一戦交えましょう」的な感じですので聞いている方が赤面しそうです。前述のとおりいい曲で、特にイントロのエレピのきらびやかさにいきなり参ってしまうので、歌詞がどうにかならんかったかなぁという感じです。また、サビに移るところのコード進行とコーラス、シンセのストリングスの盛り上げ方は、世界に無数にあるデュエット・ソングの中でも秀逸な方だと思います。
最後にチャートアクションですが、この曲のビルボードHOT100における最高位は、1983年11月5日付と翌週の11月12日付で記録した16位。したがってアメリカ本国でもそこそこ知られてはいますが、どちらかというと日本のドメスティックヒットに近い感じではないでしょうか。ちなみに今回取り上げた1983年11月12日付チャートの1位はライオネル・リッチーの「オール・ナイト・ロング」で、2位は前の週1位だったケニー・ロギンスとドリー・パートンのデュエット「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」でした。その他10位以内には来月取り上げる予定の曲と、先月までに取り上げた曲が入り混じっていますが、注目は7位のクワイエット・ライオット「カモン・フィール・ザ・ノイズ」でしょうか。当時はメタル系やハード・ロック系が冬の時代でしたが、その中でのベスト10入りは健闘しています。
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1983年12月1日付
第3位 Uptown Girl - Billy Joel
ビリー・ジョエルのアルバム「イノセント・マン」は、9月に紹介した「あの娘にアタック」を皮切りに合計6曲のシングル・カットを産み出した、収録曲にハズレのない優れた一枚でした。今回紹介する「アップタウン・ガール」は、全米1位に輝いた「あの娘にアタック」に続いての第2弾シングルです。チャートアクションは最高位3位でしたが、1983年11月12日付ビルボードHOT100で3位に上昇すると、その後12月10日付チャートまで5週連続で3位をキープし、年間チャートでは第18位と上位に食い込みました。また全英チャートでは彼自身初の1位に輝き、幾多のアーティストにカバーされるなど全世界で御馴染みとなった曲でもあります。
曲調は「イノセント・マン」に収録された曲と同様1950年代から60年代にかけて流行したR&Bやドゥーアップの要素を取り込んでおり、軽快なリズムパターンにドゥーアップ独特のファルセットを聞かせるヴォーカル中心の曲でした。私は当時よく流れていたPVを鮮明に覚えており、ガソリンスタンドの店員として働くビリー・ジョエルが、リムジンで乗りつけた当時の彼の恋人(のちに結婚し、離婚する)のクリスティ・ブリンクリィに熱を上げるというストーリーでした。なんか公私混同で日本の感覚だと「なんだかなぁ」と思ってしまいますが、アメリカではそういうのに寛大なんでしょうね。
さて最初に述べたとおり全米で5週連続3位だった「アップタウン・ガール」ですが、最後に当時この曲より上位にチャートされた曲を紹介したいと思います。5週のうちの4週は前月に述べたライオネル・リッチーの「オールナイト・ロング」で、最後の12月10日付チャートでは、それまで3週連続2位だったポール・マッカートニーとマイケル・ジャクソンの「セイ・セイ・セイ」が1位となりました。こうしてみるとこの時期の上位3曲は、なんらかの形でR&Bにかかわりのある曲だったということに気付きます。マイケル・ジャクソンが黒人としてMTV放映の壁を打ち破った1983年。その暮れに相応しいチャートアクションだったといえるでしょう。

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