ところで長州処分問題は、禁門の変を経て第一次長州征伐へと発展した。その後長州処分について評議が

行われたが、様々な意見が出て決定を見ずに終わっている。そのような中で、閏5月55日、将軍家茂が入京

した。その将軍在京中に幕府の有司中有志の者たちから、小笠原長行を老中に再任するのが目下の急務で

はないか、(註15)という主張がなされた。一橋慶喜、松平容保らはそれに賛成し、老中らを説得して、まもなく

長行の再任が決定されたのである。人材登用が重要視されだした頃ではあるが、当時長行は板倉勝静、松前

崇広と並んで幕府の老中もしくは元老中の中で有能な人物と目されていた。果断で実行力に富み、賢良を起

用してこれを信任し、幕府の役人中長行の推薦にあずかった者はどれも一時の才物である、というのが当時

の小笠原長行評であった。この長行再任の頃の近藤の書翰を見てみると、慶応元年8月18日付の小島鹿

之助、橋本道輔(道之助のことであろう)に宛てたものがある。それをみると、今の役家ではだめであるが、長

行が老中に再任されれば長州征伐もうまく運ぶのではないかと、近藤が長行に期待していることがよく解る。

長行ら幕府の人材に期待する近藤の気持ちは、同年10月29日付の佐藤彦五郎、小島鹿之助宛書翰にも

表れている。10月2日に将軍家茂が将軍を辞任すると言いだし、東帰の令を発してしまうという事件が起こ

った。結局4日に伏見で将軍に謁した松平定敬の尽力で、将軍家茂の東帰はとりやめになり、家茂は二条城

に入ったのであるが、そのことについて近藤は次のような感想を述べている。

 将軍辞任問題は大変な事件であったが、そのかわりに小笠原、板倉という人材が老中に再任されたのだ

 から、思わぬ幸いである。これからもどんどん人材登用が行われるであろうし、そうなれば長州征伐もだん

 だん実現に向かうであろう。

このように近藤は非常に小笠原長行らに期待を寄せているのである。また今までの書翰、建白書なども考え

合わせると、近藤は長州処分問題に大変熱心であり、どうしても長州処分を曖昧にしてはならないという考え

がよく解る。

 慶応元年(1865)11月4日、近藤は長防の情勢を探るために広島へ出張した。幕府が大目付永井尚志、

目付戸川はん三郎忠愛を尋問使として広島に遣わしたので、松平容保が近藤ら4名を随伴させたのであった。

この責任の重い役目に、近藤はさぞかし感激したことであろう。その時の覚悟を近藤は佐藤彦五郎、小島

鹿之助、粕谷良順(土方歳三の兄)に宛てて、11月4日に馬上で文を認めている。その文面からは、敵地に

乗り込もうとしている近藤の覚悟、また自分の役割にかなりの自信を持っていることを読みとることができる。

尽忠報国の志士近藤勇にとって、京都へ来てから3年目に初めて大役を仰せ付けられ、その大役がこの長防

の情勢探索であったのである。

 近藤は12月22日帰京し、さっそく長防の情勢を報告した。近藤は前にも見たとおり、長州征伐が実行される

ことを非常に期待していた。しかし、実際自分の目で芸州あたりの様子を見ることによって、近藤は長州処分に

ついては寛大を主張するようになった。その理由はまず第一に、長州征伐を可としない藩が多いこと、第二に

芸州出張の幕府軍の兵士が戦闘意欲が全くなく、とても戦争になっても勝算がない、ことであろう。幕府は

大切な長州問題で負け戦をすることはできないので、近藤は思いきって寛大な処置を言上したのであると思わ

れる。

 長州処分案は、幕府の因循な態度や老中と慶喜との意見の相違などでなかなか決定しなかったが、遂に

慶応2年(1866)3月2日、10万石削封し、毛利父子を隠居、蟄居させるという寛大な処置で意見が一致

した。しかし薩摩藩の出兵拒否や諸藩の中でも再征反対の声が強い中で、小笠原長行の長州との交渉は

断絶し、ついに長州軍との戦闘が開始された。

(註15)小笠原長行は文久2年(1863)若年寄より老中になった。生麦事件の処理にあたり、また文久3年(1863)、

     卒兵入京し、罷免された。

土方歳三最期の地

[次回に続く]

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