第1節 近藤勇の政治思想(1)
2、近藤勇の政治目的
<建白書・書翰などを中心に>
土方歳三の刀剣 (所有者のご好意により、その写真を掲載させて頂きました。) 非常に軽く、実戦向きの刀剣であることが解ります。文久4年(1864)正月22日の建白書には以上のように多くのことが述べられているが、しかしこの建白書の中心
は、長州藩対策についてであった。前年文久3年8月18日の政変が起こってから約5ヶ月たっている。近藤は長州
藩に対して3つの策を考え出したのである。三策とも藩内の分裂による制圧を主張しているようである。特に、長州
藩内の保守派であり支族の吉川監物を通して処理しようとしている。これは徳川氏の権威をフルに利用し、「格別の
思召」を与えることにより、本来ならお取り潰しのところを免してやる、という御恩を与えようというもののようである。
この時期には徳川家には、まだそれだけの実力を持っていると近藤は確信していたのであろう。また大藩の長州藩
をしっかり処分することにより、今後、他の諸侯が徳川家に歯向かうことのないようにという意図もはっきり表れてい
る。例外をここでつくることは後々のためにはならないと考えたのである。また近藤自身、「御上使之御供へ私共も
御差加被下候」「毛利御征伐之節は御先鋒に御差加被下度」と大変積極的であり、これによって、尽忠報国の志士
として働きたいという気持ちがとてもよくあらわれている。しかし結局第一次長州征伐には近藤は参加することはで
きなかった。近藤のこの希望が実現するのは、約2年後の第二次長州征伐の直前のことであった。
この建白書では触れねばならないことがもう一つある。それは、新選組が京都守護職御預りである、ということを、
近藤がどのように解釈していたかということである。ちょうどこの頃、松平容保は守護職をやめて軍事総裁職になっ
たのであるが、その時新選組は京都守護職の御預かりのままで、ということに決定した。そのため近藤は早速「私
共ハ守護職之御預ケト申儀ニハ無御座候。素ヨリ会津君御賢明之仁君故、奉拝恭候」故、京都守護職御預りでは
なく、会津候松平容保の御預りにしてもらえるように願い出た。それが聞き入れられたため、この建白書でそのお
礼と今後もずっと会津候へ御預けおかれるよう願い出をしたのである。このことから解ることは、近藤は決して京都
守護職配下の新選組とは考えていないのであり、松平容保が名君であるから、容保に仕えるのである、という意識
の下に活動していたということである。近藤自身、容保に私淑している面も多分にあると思われる。容保の公武合
体論と近藤のそれとの相違点、類似点については第2節で取り扱うが、しかし容保の下からの意見の受け入れ方
と近藤の態度とが一致していたということは見逃せない事実であると思う。容保は浪士対策について次のように考
えていた。尊王攘夷派の過激派浪士が兇暴な振る舞いをするのは、言路がふさがれ下情が上まで達しないため
である。だから言路を洞開すればよい。それで町奉行に命じて、「国事の得失に関することは内外問わずはばかる
ことなく有志について進言すべし」「もしはばかるところがあれば緘封して呈供すべし」「事柄によっては直接守護職
に会って陳述することも許す」という触れを発令させた。それでもなお令に従わない者や匿名の書を投じて人心を
惑乱させるような振る舞いをする者は、厳しくこれを逮捕する方針であった。浪士を玉石混淆でことごとく追捕すれ
ば、安政の大獄の再演になってしまう。だから十分に浪士たちにも発言する機会を与えるが、それはあくまでも封
建的主従関係の秩序内で行われねばならなく、主従の秩序を飛び越して勝手に発言する者たち、例えば清河八郎
らは当然排除されねばならない。また足利将軍三代の木像を梟首した浪人たちは、当然速やかに逮捕して厳罰に
処せられねばならない。なぜなら、もし彼らの行動が真に尊王の衷情から出たものならば、言路を洞開し、草莽微
賤の者でも進言を許しているのに、その令を守らずこのような兇暴をあえてするはずがないからである。まさにこの
行動は、「上は朝憲をあなどり下は臣子の本分を忘れたもの」なのである。容保はこのように、「封建的主従関係の
秩序」を守る者たちは大いに優遇するが、もしそれを破るならば、速やかに厳罰に処するべきであるという方針をう
ちたてていた。