新選組 <19>
 

第3章 近藤勇の政治思想と新選組 第1節 近藤勇の政治思想(1) 2、近藤勇の政治目的         <建白書・書翰などを中心に>

       土方歳三の刀剣 (所有者のご好意により、その写真を掲載させて頂きました。)
              非常に軽く、実戦向きの刀剣であることが解ります。
ところで松平容保はどう考えているかというと、彼は長州追討を主張しており、「越後(福原越後ー引用者註)

らがその主のために哀訴しようというのは、臣子の情として無理もないことであるが、大勢の兵を擁して輦下に

迫るのは、じつに不臣も甚だしきもの、宜しくふたたび諭して兵を退けしめ、もし応じなければ、すみやかに

掃蕩すべきである。」と一橋慶喜らに述べている。ところが慶喜は京都で兵端を開くことを恐れ、退兵の説諭

のみを繰り返し時日を費やすのみである。7月17日頃には、会津藩の壮年者と新選組の者たちが慶喜の

優柔不断を憤って、慶喜の旅館に乱入して暴挙に及ぼうとする形勢になってしまった。会津藩や新選組の頭

の面々も鎮撫しきれずに、容保が外島義正をやってやっと諭させるという事態すら起こっている。このように

近藤と同様、会津藩の藩論も全く長州追討でかたまっていたのである。

近藤は、長州と内通した諸侯の建白を恐れているが、実際にそのような動きがなかったわけではない。内通

しているか否かは別として、7月17日に有栖川宮熾仁親王および中御門経之がにわかに参内して、関白二条

斉敬に長州藩の処分寛大を迫っている。理由は京都を兵火から守るためであった。しかしこれは叡慮にもとる

との理由で退けられている。(註12)おそらくこういうことが行われることを近藤は恐れたのであろう。

幕府は外に攘夷問題、内に長州藩問題をかかえ、身動きのとれない状態であった。特に目前に迫っている

長州処分は、幕府の実力の如何を示す問題であり、その処置は慎重を極めねばならなかった。しかしいたず

らに時を過ごせば、「彼が妖計に陥り、終に和議にも相成候得ハ、是迄之御骨折周旋、無詮而已ならず、国家

之危殆」になりかねないことは確かであった。近藤は文久4年(1864)正月に長州処分三策を建白している

が、それから半年たった現在、もはや長州兵は目前の伏見まで進駐しており、ここで手を打たねばとりかえし

のつかない状態になるであろうところまで来ているのであった。国が東西に分かれて内乱が始まる前に、ここで

悪い芽を摘み取っておかねばならないというのが近藤の考えであろう。また近藤の考えは、まさに松平容保

及び会津藩の藩論とも一致するものであった。

ちょうどこの頃、近藤は義父周助(周斎)に隊士募集の周旋を依頼している。

   関東にも武人の有志はおりましたら、早々上京するようにお頼み申し上げます。

兵は東国に限ると思っております。

このこと、宜しく周旋下さいませ。(註13)

「兵は東国に限り候」というのは近藤の持論である。文久3年(1863)から慶応4年(1868)までの判明分だけ

でも、新選組隊士出身国別で関東出身者は251名中44名(出身国不明が全体の半数以上ある)、関東に

次いで多いのが近畿の35名である。(註14)新選組は京都で活躍していたにもかかわらず関東が最も人数が

多いというのは、近藤の「兵は東国に限り候」という持論を通したためであると思われる。同年10月下旬に

近藤は京都の動きを幕府に告げるため、容保の内意を受けて東下するが、その時この言葉通り、近藤は伊東

甲子太郎をはじめとする50余名もの新同志を関東の地で獲得している。

(註12)山川浩「京都守護職始末」2、67−77頁。

(註13)平尾道雄「新撰組史録」100−103頁。

(註14)本稿、第2章第1節「新選組隊士出身国別一覧表」参照。

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