近藤をはじめとする新選組は、封建的主従関係の秩序を乱すことは全くせず、その行動は必ず主家を通して行

われた。近藤はいわゆる「順序正義の徒」であったのである。(註11) それでは近藤は、どのような考えのもとで行

動をおこしたのであろうか。そこで近藤の心情=忠節はどのようなものであったのかをみていくことにする。

 近藤勇から小島鹿之助、橋本道之助にあてた書翰の一つに、絶体絶命の危機にたたされている徳川幕藩体制

のために、死をも顧みず、自分の真心を尽くそうとする近藤の気持ちが書かれているものがある。その中に

「・・・乍去御採用等ニ成と不成とハ上ニ在り。覊旅臣斗る所ニあらず。・・・」

つまり近藤はその自分の努力が報いられなくとも、それはやむをえないことと考えている。そしてあくまでも「臣」と

しての「分」を守っていこうとする。まさに近藤は封建的主従関係に適合した「順序正義の徒」であった。それ故に

こそ、松平容保も、近藤をはじめとした新選組を十分に優遇することができたのであり、また新選組も「名君」松平

容保のもとで自分の力を発揮することができたのである。

 この書翰の中には近藤の義父であり、剣術の師匠でもある近藤周助邦武(周斎)のことが出てくる。近藤は大変

義父孝行であり、建白書や書翰で度々義父のことに触れている。たとえば「尤心懸り候者老父而已」(文久3年夏、

書翰)「若亦私誠君為戦死を遂候得者、愚父に聊か養育の御手当、思召を以て召置被候は有り難く存じ奉り候、

外に多念聊か御座無く候」(文久2年10月15日、口上願書)などである。近藤勇の人間性の一面をうかがうこと

ができる。  元治元年(1864)6月5日に池田屋騒動が起こっているが、この事件は、長州藩を武力を背景とした

藩主父子の入京の請願へと踏み切らせることになった。6月24日、長州は伏見に到着している。近藤はすぐさま、

長州対策について松平容保に建白書を呈出した。長州勢は強装の出で立ちで、武器を持って所々に集まりつつ

あったのである。それについて近藤は次のように述べている。

   しかしながら、長州は必ず戦闘態勢で朝廷や幕府を恐怖させ、その虚に乗じて、兼ねてから内通して

  いた諸侯に和睦周旋をさせ、それがうまくいったら京都に滞在し、暴れ回るでしょう。彼らの如く小勢で

  は勝ち目がないことは解っているはずです。天下に悪名を流すのは必然のことでありますので、ただた

  だ虚勢を張っているだけのことです。だから、内通している諸侯からの建白が無い内に、御所詰にな

    り、その上で逆襲することは争戦の専要で、千丈の縄も一寸ずつ切れば必ず尽きるものです。すぐに

    行動しなければ、世間に流言あふれ、議論沸騰するのではないでしょうか。そうなると必ず彼らの妖計

    に陥り、遂に和議にもなってしまえば、これまでのお骨折り、周旋が無になり、その上、国家の危機が

    おとずれてしまいます。このこと、とくと御深慮なさっていただきたいです。

近藤は明らかに文久3年8月18日の政変の成功を念頭においている。それ故、まず御所詰になる必然を説いて

いるのである。近藤のこの建白書の中での様々な推測は的を得ており、7月19日の禁門の変までの過程をみて

みると、まさに近藤の心配の通りになっている。

(註11)山川浩「京都守護職始末」1、49−50頁。遠山茂樹「新選組誕生の政治的背景」(「歴史と人物」昭和50年6月号所収)

土方歳三最期の地

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