このように近藤はかなり先を見通している。一番恐るべきことは、他ならぬ外国による植民地化ないしは半植民地 化であるということを近藤は認識している。またそれを防ぐためには、国を二つに分裂させてはならない(近藤のいう 二つとは、東=幕府と西=薩長土など西国諸藩のことである。)し、ましてや内乱などは避けねばならない。近藤は 統一国家の必要を認識しているのである。それでは近藤は、どのような方法で国を一つにまとめていこうと考えてい るのであろうか。 文久3年(1863)10月10日、近藤は祇園一力楼で開かれた薩摩、会津、土佐などの公武合体派諸藩の国事周 旋掛りの会合に出席している。そこで近藤は時勢論を唱えている。その時勢論から近藤の政治方針を読み取ること ができる。近藤の時勢論を要約すると、まず公武合体を成し遂げ、その上で幕府が中心となって攘夷をすれば、国 内は平穏になるのだ、というのである。このことから、近藤は公武合体論者であり、しかも攘夷主義者であることが 解る。 近藤が時勢論を述べたら各藩の国事周旋掛りはそれに皆同意した。薩摩、会津などの公武合体派の集まった会 合であるのだから当然のことではあるが、さらに議論を重ね、大樹公(徳川家茂)が御上洛になった上で、関東で御 英断なさらなければ今の状態は決しておさまらないだろう、ということで意見が一致した。 ここで近藤の考えている様々な政策というものを少し詳しく見ていきたい。まず最初に大坂防備について見ていく ことにする。これは文久3年(1863)亥12月付、松平容保宛の建白書によってその内容を知ることができる。 大坂(浪華港)は京都への運送の7、8分を受け持っているので、もし大坂が賊兵に占領されたら、京都にいる朝 廷守護の兵の食料などに困ることになり、朝廷を守護することができなくなる。京都守護における大坂の役割は非 常に大きい。だからその要地大坂の防備は、御三家や御三卿の御家門の内から人選して行うべきである。 と近藤は主張しているのである。これは近藤の考え方の特徴であり、かつ限界であろう。大坂が要地であればこそ 広く人材を登用し、しっかりと防備しなければならないのであるが、近藤は要地故に、徳川一門、それも御三家、御 三卿というしっかりとした血縁関係で押さえようとしている。しかしこれは逆に言えば、近藤が徳川家への絶対的な 信頼というものを表しているといえよう。前に将軍東下問題の時、近藤は「八万人中男児無く存じ奉り候」と述べてい るが、旗本や幕吏に対する不信感の裏返しとしてより強く徳川一門への信頼感及び心情的な傾倒を近藤は持って いたのではあるまいか。 大坂防備については文久4年(1864)子正月22日付の松平容保への建白書で言上している。 ・・・外藩之諸侯御固め仰せ付けられる場には之有る間敷き哉と存じ奉り候。何卒御一門之大侯にて 御警衛之有り度存じ奉り候。 前と同様、徳川一門による警備を主張している。と同時に、外様大名に対する警戒心が表れている。 文久4年(1864)正月22日の建白書では、大坂防備と共に京都のことについても近藤は述べている。 洛陽に無役の諸侯滞留致され、其の身の勝手に参内奏聞等之所置、如何と存じ奉り候。 徳川一一門を重んじる近藤の偽らざる気持ちであろう。ここにも外様大名に対する不信の念が表れている。 この建白書では他に国防や開港についての意見も見ることができる。近藤は前にも見たように、あくまでも幕府に よる攘夷を主張しているのであって開国には反対であった。しかし開鎖どちらにしても、幕府がしっかりと今後の方 針を立てなければどうにもならず、今のようにふらふらした態度ではこの先どうなるか解らないため、近藤は幕府の 英断を迫ったと考えられる。また植民地化あるいは半植民地化の危機感を持つ近藤は、いざというときのために山 国と沿海諸国とに分け、具体的に外夷に対する対策を打ち出している。近藤の攘夷論は、ただ外人を殺傷するだけ のものではなく、自国の防備についても深く考えていることから、外国の強さというものをある程度認識している攘夷 論であったと思われる。 この建白書でおもしろいのは、武道奨励について述べていることである。いかにも剣術家の近藤らしい。この建白 書を読むと、近藤はよほど旗本、御家人衆の堕落が堪えられなかったのであろう、ということが推測される。近藤自 身をみてみると、大変多忙な京都時代を過ごしたにもかかわらず、久武館(あるいは文武館)という道場を京都に建 てて、剣術などの練習に励んでいたようである。また近藤の刀剣論である「脇差長き程宜く御座候」というのは有名 であるが、近藤は刀剣については非常に気をつかっていたようである。こういう近藤自身の生活から、旗本、御家人 の武道奨励の必要性についての考え方が出てきたのであろう。 文久4年(1864)正月22日の建白書には以上のように多くのことが述べられているが、しかしこの建白書の中心 は、長州藩対策についてであった。これについては次回に触れたいと思う。
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