Coupling With  2007年版

    
2007年1月 <For Week Ending January 20,1979>
B MY LIFE - Billy Joel C/W D HOLD THE LINE - Toto
今年から70年代のチャートを紹介します。リニューアル第1弾はリアルタイムである80年代への橋渡しとなる1979年のチャートです。ビリー・ジョエルの「マイ・ライフ」はアルバム「ニューヨーク52番街」のファースト・シングルですが、昨年暮れのビリー・ジョエルのコンサートで、この曲が2曲目に演奏され不覚にも感激で涙してしまいました。それだけビリー・ジョエルの代表的楽曲で、私にとっても思い入れの強い曲ですが、それもそのはず、「ニューヨーク52番街」は彼自身初の全米アルバムチャート1位に輝き、日本では初めてCD化されたアルバムであり、そのアルバムの中で「オネスティ」と並んで最も日本で認知されている曲となっています。ビリー・ジョエル自身は「歩くようなテンポで、コンサートでは1曲目の怒れる若者の次に一番おさまりがいい曲」とコメントしています。
一方、トトの「ホールド・ザ・ライン」はデビューアルバム「宇宙の騎士」のシングル・カット曲で、80年代初頭の私の音楽の志向性を決定付けたアーティストです。私が、洋楽のコンサートに行ったのは2回だけですが、それが前述のビリー・ジョエルとトトであるのもうなづけます。「ホールド・ザ・ライン」は、トトには珍しいサビをみんなで歌える曲ですが、コンサートではアンコールでボーカルのボビー・キンボールが客席にマイクを向け、オーディエンスみんなで合唱という盛り上がりを見せました。「宇宙の騎士」の後、1年に1枚のペースでアルバムを発表し、4枚目の「聖なる剣」で頂点に駆け昇りましたが、曲のクオリティは1枚目の「宇宙の騎士」もかなり高く、オススメの1枚です。
さて、この日のチャートは、ナイル・ロジャース擁するシックの「おしゃれフリーク」が1位、ビレッジ・ピープルの「Y.M.C.A.」が4位、ロッド・スチュアートの「アイム・セクシー」が10位と、まだまだディスコ旋風が吹き荒れていただけに、この2曲は健闘していると思います。
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2007年2月 <For Week Ending February 16,1974>
@ THE WAY WE WERE - Barbra Streisand C/W A LOVE'S THEME - Love Unlimited Orchestra
単純にビルボード等の全米チャートを追いかけていた、中学から高校初期の音楽嗜好から、徐々にフュージョン等にウイングを広げていったのですが、同時にヒットチャートを70年代に溯るという波も17〜18歳の時にありました。その中で中心的存在だったのが、バーブラ・ストライザンドの「追憶のテーマ」でした。映画の方は、30歳をとうに過ぎてからやっと観たのですが、「ニューヨークシティ・セレナーデ」と「ミスター・アーサー」の関係同様、映画よりもテーマ音楽の方が秀逸で、音楽だけが21世紀に残っているいい例です。特にこの曲は、心が弱っている時に聴くのがベストで、営業マンをやっていた頃、夕暮れの磐田バイパスを天竜川へと下っている時、カーラジオから流れてきた時の状況が忘れられません。70年代のやさしい音楽の代表だと思います。
もう一方の「愛のテーマ」は、正直ここに載せるべきかどうか悩みました。というのもインストゥルメンタルの曲で、今も昔も毛嫌いしているイージー・リスニング系音楽であるためです。まぁ、ポール・モーリアやリチャード・クレイダーマン等と違って、ギターのカッティングやリズム・セクションに目を見張るものがありますが・・・。先日ユーチューブでこの曲のビデオを観ていたら、この曲に合わせてディスコで若者が踊ってるのにはビックリしました。この曲がヒットしてから3〜4年後にはビージーズがディスコを席捲する訳ですから、ある意味貴重な映像でした。
1974年2月は、第1週に「追憶」が1位となったものの、翌週は「愛のテーマ」が1位となり、第3週と第4週で再び「追憶」が1位を記録するという複雑なチャートアクションをしていたことを付け加えておきます。
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2007年3月 <For Week Ending March 28,1970>
@ BRIDGE OVER TROUBLED WATER - Simon & Garfukel C/W A LET IT BE - Beatles
今月はぐっと時代を溯って1970年3月の強力な2トップを紹介します。折りしも卒業式シーズンということで教科書にも載るような曲であり、かつ心に残る名曲を取り上げました。「明日に架ける橋」は、全世界で大ヒットし、翌年のグラミー賞で最優秀レコード賞も受賞しました。1970年といえばアメリカではベトナム戦争が泥沼にはまっていて、市井の人々の多くが言いようもない虚無感で疲弊していた時でした。それを勇気づけるような歌詞とハーモニーが疲れた人々癒したことでしょう。私も、日常生活でいろいろな苦しいことがあった時には、この歌を聴いて元気をもらいます。
一方の「レット・イット・ビー」も全世界で知らない人がいないくらいの名曲で、やはり違う意味で癒してくれる歌詞です。「Let It Be」の訳は「なるようになる」とか「そのままにしておけ」とか「ほっときなさい」だと思いますが、私にとっては「ま、いっか」が一番ぴったりきます。「ま、いっか」は私の口癖で、「物事を真剣に考えることから逃げる行為だ」と先輩方から注意されてきましたが、名曲の中でポール・マッカートニーからあれほど連呼されれば、やっぱり「ま、いっか」という気になります。この後4月に入ってから2週連続で1位を記録した「レット・イット・ビー」ですが、1987年に起きたイギリスのフェリー転覆事故の救済基金集めのためのチャリティで、ポール・マッカートニーによってセルフカバーされ、「フェリーエイド」名義のシングルがリリースされました。私はそのバージョンがお気に入りで、毎年実施している「Spring Tour」には必ず持っていくほどです。
さて、今回登場した2つのアーチストは、これらの曲をリリースするとともに解散していきました。こんなところも「別れ」の季節に相応しい曲なのかもしれません。
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2007年4月 <For Week Ending April 1,1978>
@ NIGHT FEVER - Bee Gees C/W A STAYIN' ALIVE - Bee Gees
映画「サタデーナイト・フィーバー」を頂点とするディスコブームは、音楽の世界にも大きな影響を与えました。ロッド・スチュアートの「アイム・セクシー」やELOの「ロンドン行き最終列車」など、おおよそディスコとは無関係なアーチストもディスコサウンドを取り入れています。私が洋楽を聴き始めたのは1979年ですので、リアルタイムでこのディスコ・ブームを経験したわけではありませんが、まだまだディスコ的サウンドが残っている時代でした。ディスコのアンチテーゼとして生まれたのがAORサウンドで、私はこちらにはまっていたのですが…。
さて、そのディスコブームの頂点といえるのが1978年の春で、「サタデーナイト・フィーバー」の挿入曲の「恋のナイト・フィーバー」と「ステイン・アライブ」がチャートの1・2位を独占しています。この状態は3月18日から5週間連続で記録されたのですが、ビージーズの快進撃はこれにとどまりません。同映画からの1stシングルである「愛はきらめきの中に」が前年の11月26日に全米チャートの3位になって以来、1978年5月6日まで半年の間ずっとビージーズの曲が3位以内にランクインしています。
「ステイン・アライブ」がもっともディスコっぽいと感じるのですが、「恋のナイトフィーバー」は土曜日の夜の高揚感を表していて、より好ましく感じます。この曲がヒットしてから10年後の1988年4月、私に第2次70年代洋楽ブームが訪れました。「名前のない馬」や「オールド・ファッションド・ラブソング」など、ちょっとB級のヒット曲が中心でしたが、この「ナイト・フィーバー」だけは別格で、その後いろいろな旅に連れて行った思い出があります。功罪入り混じったディスコブームでしたが、その中のいくつかの曲は、私の心の中に未だ残っています。
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2007年5月 <For Week Ending May 7,1977>
@ HOTEL CALIFORNIA - Eagles C/W C SIR DUKE - Stevie Wonder
イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」、スティービー・ワンダーの「キー・オブ・ライフ」。いずれも70年代を代表する大ヒットアルバムです。前者は社会問題を鋭く風刺した重厚なアルバム。後者は製作に延べ2年間、1000曲の中から厳選された珠玉の名曲を、スティービー・ワンダーが明るく唄っている印象があります。いずれも1976年に発表されましたが、これらの曲が全米で第1位を記録したのは翌年1977年の5月でした。
まず「ホテル・カリフォルニア」から。ツインギターの奏でるイントロから鳥肌が立ってしまいますが、ドン・ヘンリーの憂いのあるボーカルが、社会派の歌詞とあいまって強い印象を残します。曲の後半部で延々と続く、ドン・フェルダーとジョー・ウォルシュによるツイン・ギターのハードなプレイに至っては、多くのロック・ファンが涙モノであったことでしょう。ロック小僧だった私も、80年代初頭にこの曲に出会いましたが、かなりの衝撃を受けました。
一方の「愛するデューク」は、スティービー・ワンダーの敬愛するデューク・エリントンに捧げた曲で、イントロのホーンセクションがそれを裏付けています。スティービー・ワンダーの伸びやかなボーカルが、さも気持ち良さそうに歌っているなという感じがして、同じく「キー・オブ・ライフ」に収録の「可愛いアイシャ」とともに、私のお気に入りの一曲となっています。この「愛するデューク」は、この後5月21日から3週にわたって全米第1位を記録しました。
いずれにしても、これらの曲はアルバムを全編通して聴くと、より一層良さが際立つと思いますので、ぜひお試しあれ…
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2007年6月 <For Week Ending June 23,1979>
@ Hot Stuff - Donna Summer C/W H BOOGIE WONDERLAND - Earth,Wind & Fire with The Emotions
70年代末期から80年代初頭のディスコシーンは、社会現象となっていたビージーズの旋風が収まり、再びソウルミュージックの天下となっていました。そのディスコシーンを引っ張っていたのが、今回ご紹介するドナ・サマーとアース・ウインド&ファイアでした。特に1979年の初夏にヒットした「ホット・スタッフ」と「ブギ・ワンダーランド」は、現在40歳代の人には忘れられない曲ではないでしょうか。
ドナ・サマーは、当時「ディスコの女王」と称されるほどの人気を博していましたが、私が彼女の存在を知ったのもちょうどこの頃で、「ホット・スタッフ」のカッコいいシンセのリフがラジオから流れていたのを思い出します。純粋なディスコ・ミュージックより少しロック寄りの味付けが多く、ストレートな彼女のヴォーカルとあいまって、洋楽に目覚めた加藤少年の心を惹きつけました。お世辞にも美人とはいえないルックスですが、鼻の上がった顔立ちがキュートに感じたように思います。
一方のアース・ウインド&ファイアは、本国アメリカよりも日本で人気となり、今回紹介する「ブギ・ワンダーランド」と翌年の「レッツ・グルーヴ」は、ディスコのスタンダード・ナンバーとして、21世紀となった今でも残る名曲となっています。私もよくカラオケでこの曲を挑戦するのですが、モーリス・ホワイトの低音の歌声とフィリップ・ベイリーの高音のボーカルに、エモーションズのファルセットを1人でまとめて表現するのは不可能で、いつも失敗に終わっています。それでも懲りずにまた挑戦したくなる魅力をこの曲は秘めています。
「ホット・スタッフ」は、この週も含めて延べ3週の間、全米1位をキープしました。また、「ブギ・ワンダーランド」は、1979年7月14日と21日付けのビルボードTOP100で最高位6位を記録しています。
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2007年7月 <For Week Ending July 17,1971>
@ IT'S TOO LATE - Carole King C/W B YOU'VE GOT A FRIEND - James Taylor
私の第3次70年代ブームは90年代半ば頃。キャロル・キングの「つづれおり」というアルバムに出会ってからでした。阪神大震災、オウム事件といった出来事によるその時代の閉塞感を癒してくれる音楽を渇望していたのだと思います。1996年の暮れには、このアルバムを持って津軽地方を歩きました。だから「つづれおり」を聴くと、今でも鉛色の空と白い大地が蘇ってきます。キャロル・キングの代表作といえば、その「つづれおり」に収録されている「イッツ・トゥ・レイト」で、この曲は1971年6月19日から7月17日付ビルボードチャートまで5週連続で第1位を記録しています。マイナーコードで始まるピアノのイントロが印象的で、サビのメロディのコード進行も単純なようでスパイスが効いておりカッコイイ曲でした。
さて、その「つづれおり」のB面1曲目が「きみの友だち」で、この曲をジェイムス・テイラーに提供したら大ヒット。同年7月31日付ビルボードチャートでは見事第1位に輝きました。「つづれおり」に収録されているキャロル・キングのオリジナル・バージョンはピアノの曲で、これはこれで捨てがたいのですが、ジェイムス・テイラーのバージョンはギターをバックに唄っており、こちらの方がしっくりきます。ジェイムス・テイラーの「きみの友だち」を聴いたのは、「つづれおり」を聴き込むずっと前の80年代終盤。私の第2次70年代ブームの時でしたので、馴染み深いのも当然かもしれません。いずれにせよ同時に全米Top3に送り込んだキャロル・キングの曲作りの能力は賞賛に値します。
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2007年8月 <For Week Ending August 5,1972>
@ ALONE AGAIN (NATURALLY) - Gilbert O'Sullivan C/W I LAYLA - Derek & The Dominos
ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」には真夏のヒット曲という感じがしません。もちろんこの曲がチャートをにぎわしていた頃は私も幼児で、リアルタイムで体験していないというのが一番の理由なんですが…。この曲がヒットしてから10年以上経った高校2年の秋に、私はその存在を知りました。淡々としたギルバート・オサリバンのボーカルが気に入ったのですが、その後歌詞の内容を知り70年代初頭の時代性を感じずにはいられませんでした。泥沼に陥ったベトナム戦争を始めとした時代の閉塞感が、この曲の歌詞にも影響を与えていました。その歌詞を鼻歌のように自然に歌うギルバート・オサリバンの歌声に、大学生になってから何度も励まされました。
一方エリック・クラプトンの「いとしのレイラ」は、今となってはクラシック・ロックの代表のような曲ですが、全米チャートではこの週の10位が最高位でした。90年代になってアンプラグドで演じたこのナンバーもいいのですが、私はやっぱりオリジナルのデレク&ドミノス名義のヴァージョンがお気に入りです。鋭利な刃物を連想させる、あまりにも有名なギターリフのイントロに始まり、シャウトするクラプトンの歌声、そして後半はピアノのコードバッキングに乗せてクラプトンのスローハンドが楽しめるという聴きどころ満載の曲です。特に私は後半のピアノの部分がたまらなく好きで、旅先で最もよく聴く曲のひとつとなっています。
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2007年9月 <For Week Ending September 24,1977>
B DON'T STOP - Fleetwood Mac C/W F TELEPHONE LINE - Electric Light Orchestra
フリートウッド・マックの「噂」は全世界で1800万枚を売り上げ、1977年のビルボード週間アルバムチャートに31週間にわたって1位を獲得したモンスターアルバムです。このアルバムの成功により、フリートウッド・マックは世界的なロックバンドの名声を得ました。「ドント・ストップ」はその大ヒットアルバムからのシングル・カットで、紹介している9月24日とその翌週のシングルチャートで最高位3位を記録しました。彼ら本来のブルースのリズムを生かしながら、ポップで軽快なロックに仕上がっており、アルバム「噂」の代表的な曲として知られています。1982年のアルバム「ミラージュ」で彼らの存在を知った私ですが、特にスティービー・ニックスの歌声が好きで時代を遡り、このアルバムに行き着いたのでした。
一方のELO(エレクトリック・ライト・オーケストラ)の存在を知ったのは1979年の秋。彼らの代表的なアルバムのひとつ「ディスカバリー」と、同アルバムからシングルカットされた「ロンドン行き最終列車」が、洋楽を聴き始めたばかりの私の心をつかみました。やはり彼らの歴史を遡っていくうちに、壮大なオーケストラとコーラスが魅力的な「オーロラの救世主」アルバムと代表曲「テレフォン・ライン」を知ったわけです。この曲も、紹介している9月24日と翌週のシングルチャートで最高位7位を記録し、ELOの名を世間に知らしめました。
世界的なディスコブームで、エモーションズやK.C.&ザ・サンシャイン・バンドといったソウル・ミュージックがシングルチャートの上位にあった当時、これらのロック・ナンバーはチャートの一服の清涼剤となっていました。
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2007年10月 <For Week Ending October 23,1976>
@ IF YOU LEAVE ME NOW - Chicago C/W C LOWDOWN - Boz Scaggs
70年代後半から80年代初頭にかけてAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)あるいはアダルト・コンテンポラリーという大人向け音楽が全盛となりました。その分野の中で代表的なロック・グループとして名前が挙がるのが、今回紹介するシカゴ。そして代表的男性シンガーはボズ・スキャッグスです。シカゴというグループを知ったのは、彼ら自身の2曲目の全米1位ヒットとなった「素直になれなくて」がチャートを駆け上っていた1982年夏ですが、今回紹介する「愛ある別れ」はシカゴ初の全米1位を記録した記念すべき曲です。ピーター・セテラの甘い歌声は、こういったラヴ・バラードでこそ本領を発揮することとなり、その後のAOR全盛時代を築く礎となりました。
一方のボズ・スキャッグスも、シカゴ同様60年代にデビューしていますが、彼の成功を決定付けたのは1976年に発表されたアルバム「シルク・ディグリーズ」でした。このアルバムに参加したスタジオ・ミュージシャンが後にTOTOを結成し、大成功を収めたのはあまりにも有名です。さて、そのアルバム「シルク・ディグリーズ」で最も知られている曲は、スタンダードナンバーとなっている「ウィア・オール・アローン」ですが、このアルバムの雰囲気を伝える代表的な曲は、今回紹介する「ロウダウン」といっていいでしょう。ドラムスのジェフ・ポーカロとベースのデビッド・ハンゲイトが作り出す軽快なビートが印象的なこの曲は、例によって御大ボズ・スキャッグスが軽い感じで歌っているのがオシャレで、当時のアッパーミドルたちを虜にさせたことでしょう。「ロウダウン」は1976年10月9日と16日のビルボードTOP40で最高位3位を記録しています。
80年代初頭にはシカゴもボズ・スキャッグスもデビッド・フォスターをプロデューサーに迎え、ますます洗練された大人向け音楽を世に出したという点で共通点があるところが興味深いところです。
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2007年11月 <For Week Ending November 10,1979>
@ HEARTACHE TONIGHT - Eagles C/W C RISE - Herb Alpert
1979年秋といえば私が洋楽に興味を持ち始めた時期です。したがって今回紹介する2曲もヒットしている最中にリアルタイムで聴くことができました。特に「ハートエイク・トゥナイト」は、この曲で初めてイーグルスというバンドを知ることになり、その後さかのぼって「ホテル・カリフォルニア」や「テイク・イット・イージー」を好きになるという経緯をたどったという点でも重要な曲です。この曲が収録された「ロング・ラン」というアルバムも、イーグルスの過去のアルバム同様大ヒットを記録し、特に日本では「ホテル・カリフォルニア」でも果たせなかったオリコンチャート1位を記録しています。その後再結成されるものの、イーグルス解散前の最後のスタジオアルバムであり、最後の曲「サッド・カフェ」は解散を暗示させる哀感がこもった曲で、イーグルスの曲の中でも最もお気に入りの曲のひとつでした。
一方、ハーブ・アルパートの「ライズ」はキリン・シーグラム(現キリンディスティラリー)のウィスキー「ロバート・ブラウン」のCMソングとして日本でも知られています。その後「ビヨンド」「マジック・マン」「ファンダンゴ」「ルート101」とCM曲は変遷していきましたが、使われる曲いずれもがかっこよく「酒を飲める年になったらロバート・ブラウン」にしようと心を決めたものでした(実際に大学の下宿には必ず「ロバート・ブラウンJr.」を置いていました)。ハーブ・アルパートは当時A&Mというレコード会社の経営者としても知られており、私にとってはポリスやYMOあるいはカシオペアのレーベルとして馴染み深いものになっています。
今月の2曲は楽曲とは関係のない周辺の話に終始してしまいましたが、やはりリアルタイムで聴いた曲は当時の思い出が甦ってしまうため仕方のないところでしょうか。最後に、この週のチャート上位曲を挙げておきます。3位にコモドアーズのスローバラード「スティル」、6位にエレピが印象的なスティックスの「ベイブ」、7位にバーブラ・ストライザンドとドナサマーが織り成すディスコチューン「ノー・モア・ティアーズ」と、その後全米1位を記録する名曲が目白押しでした。
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2007年12月 <For Week Ending December 8,1973>
@ TOP OF THE WORLD - Carpenters C/W A GOODBYE YELLOW BRICK ROAD - Elton John
カーペンターズとエルトン・ジョン。どちらも1970年代の代表的なポップスシンガーですが、1973年12月に彼らの代表的な曲どうしで全米チャートの1位2位を分け合いました。カーペンターズの方は「トップ・オブ・ザ・ワールド」。クリスマスソングをメドレーで歌った「ウインター・ワンダーランド/シルヴァー・ベルズ/ホワイト・クリスマス」でも分かるとおり、カレンの透き通った歌声は初冬によくマッチします。アンダンテのテンポとあいまって、冬の寒さを癒してくれる1曲です。
一方のエルトン・ジョンの方は「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」。全米チャートでは3週連続の2位が最高位でしたが、まぎれもなく彼の最高傑作のひとつに挙げられるでしょう。特にサビの部分のハミングは印象的で、これまた聴く人に癒しを与えてくれます。夕暮れ迫る街の片隅で、コートの襟を立てて背中を丸めながら急ぎ足で行きかう人々に紛れながら、この曲を口ずさむと、エルトン・ジョンの愛したレンガ道が眼前に浮かび上がってきます。これも12月に聴くのに相応しい1曲です。
さて、1970年代にこだわってきた今年のこのコーナーですが、来年は70年代80年代を問わず気に入った年を取り上げてみようと思います。お楽しみに…

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