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小児がんの発生は、小児一万人あたり一人の割合で睾丸腫瘍は、その中の2〜3%にすぎないらしい。 初期の段階で、摘出し転移がなければそのまま通常の生活に戻る。
また、転移が認められても、抗がん剤が よく効き完治するガンといわれる。
とは言うものの特殊な病気で有るだけに不安は尽きない、 本当に申し訳ないことだが、他の小児がんに比べれば・・そんな比較でしか心に平静を保てなかった。
精巣(睾丸)腫瘍(国立がんセンター)参照
性機能障害、副作用などの看護・支持療法(国立がんセンター)発症から入院、手術、治療そして退院、現在にいたる、記録そして思うこと。
since1997.6.10
今にして思うこと
このホームページを立ち上げるきっかけは、今更ながら思うことを、 治療に当たる前に、同じような病気になった人たちに手術治療の前に、 ひとつの情報として知っておいて欲しかったからです。
退院から二年が経ち転移再発の心配もだいぶなくなった今、(ドクターは目安として三年と言う) 不安になるのは、治療による副作用・後遺症である、中でも一番の心配は、抗がん剤が細胞に与えるダメージ による新たなガンの発生。
AFPの値だけが治療の目安であっただけに、治療がすんで今までの記録をかえりみて どうも何がしかの薬が投薬された後にAFPの値が上昇するように見える。 息子のAFPの値がばらつくのは、ガン細胞の増加とは関係なく、投薬による肝機能の障害によるのでは? 風邪を引いたりしても変化することも有るらしい。
手術後、抗がん剤治療が決まった時
- 通常の値ではなかったにしろ、一応降下傾向にあったのだから、もう少しようすを見てから (AFPの値が上昇傾向を示すのを確認してから) 抗がん剤治療を始めてもよかったのでは?
別系統の薬の追加投与が決まった時
- 同じように、ある程度の観察期間を持ってもよかったのでは?
いずれにしても、いまだから思えることなのだけれどセカンドオピニオンを聞く姿勢というのも あった方がよかったかなと思う。
AFPの値が一定の上昇傾向になければガン細胞の増加の裏付けにはならないのでは?と 考えられる知識、ゆとりがあれば・・
払拭出来ない恐れに対抗する手段
- 皆、生きている限りは、何時か必ず死ぬという事実を認め ( いつ死んでも不思議じゃない )払拭出来ない恐れに対抗するには、君達と今を、 悔いを残さぬように大切に生きる事位しか思いつかない、 「今、この状態で悔いはないか? 後ろめたいことは、ないか?」と時に触れ、自分に問う。 これは、なにも病気になった者だけではなく万人に共通な事ではなかろうか?
以下は主に日記からの抜粋です、 誠に申し訳有りませんが感傷的な部分が多々有ります、ご了承下さい。
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このページを通じて知り合った、同様な経験をお持ちの方々のご協力で、投稿された相談・質問ごとに返事の書込める 掲示板:睾丸(精巣)腫瘍BBSを開設いたしました。 ただ、人数も少なく(年齢やタイプも違い)、ご協力という形ですので返信が無い場合がありますがご了承下さい。
将来、出来る事なら貴方様にも相談を受ける側として参加頂ければ幸いです。
★年齢・タイプ別体験記★
発症の頃の日記
息子がガンかもしれない、見るからに健康そうに、楽しそうに遊ぶ息子が、ガンかもしれない。 このひと月家内が、片たま、片たまと気にしていたので、意識して触ってみると確かに、左睾丸が、 ゴロリと硬く大きい。しかし、息子自身は何も変わらず元気。
医師の「別に気にすることはありませんよ」この一言を聞きたいがために病院へ、しかし、 泌尿器科の専門医に紹介状をもらい大学病院へ、回される。 診察、採血そしてその場での入院手続き、そして、医師から「睾丸腫瘍の疑いが有り、MR・血液検査による 腫瘍マーカー(AFP・・α−胎児性たんぱく)の確認、その後、 睾丸の一部もしくは全部、及びリンパ節までの切除摘出」と告げられる。 「初期であれば心配することは、ありません・・」とも。
状況がつかめず云われるがままに生返事、手続きが済んでからも現実味を帯びてこない。 「睾丸がん」医学書を見るが、頭の中ではまだ何となくたいしたことではないと思っている。 翌日、色々な医学書を立ち読み、どれもあまり良いことは書いていない。 いや、よくない所ばかりに目が行ってしまう、急に最悪の事態が頭の中で大きくなってゆく、 まだ、血液検査の結果もでていないのに。 とてつも無い悲しみが、むすこの笑顔を見ていて、こみあげる。 妻が「お父さんがそんなことで、どうするの!」と・・・ 本当だ、だめなお父さんだと云いながら涙が止まらない。
冷静に客観的になるようにこのノートに向かう。 なんとか、しっかりとしたお父さんにならなければ、踏ん張ってとりあえず血液検査の結果が出るまでは、 今、悲しんでいるときではないでしょ! これからなんだよ、これから!
入院、検査、手術、術後の処理総てを終えて元気に健康になって返ってくる、しばらくかかるかもしれない、 だから、今から思い悩んで悲しんでどうする! 決まってから、せめて決定してから悲しめよ泣けよ、ねえお父さん。
お父さんが今出来ること
こんなに元気なのだから、別に何ともなく、ずっと元気だよと信じ願い、入院までのあいだ、 一緒に元気に遊んであげること。 まだハッキリしていないのだから、信じたくないことなのだから、今は、信じないで! せめて、検査結果が出て入院するまでは。 から元気でいいよ、最初から希望をすてないで、最後まで希望を持って!
今まで、漠然と世の中の空気と一緒に流れていた私たち家族の世界が、急に固まり回りの世界から 隔絶してしまった。いつかまたもとどうり流れの中に自然に居られるように、今は、精神力を頼りに生きて、 不幸せになりたがるのは、やめて、その場その場で一番幸せで居られる道を歩いて、幸せで居たいという 思いを込めて、扉を開けていって、今や自分一人ではないのだから。
覚悟をして肝が座らないのなら、覚悟できないのなら、今は、逃げてでも心を楽にして。
何事においても先入観を入れず、憶測に脅えず、無意味に心を震わせず、すがることなく、何処までも受け止め 何処までも背負い、そして必ず背負ったままでも、此処へ戻って生活を継続するぞという覚悟、決意、 強い願望。 この思いを後ろ盾として、夫であり父であり続けたい。
何時か必ずいずれかの結果が出て、形となり平穏を取り戻す、その時まで 今日は、この言葉にしがみついて・・父として生きてゆくために。
入院・手術
血液検査の結果、 AFPの値が、63,5(単位がどうだったか忘れました)通常、息子ぐらいの小児では 5 前後の値だそうで、入院・摘出手術が決定。ようやくヨチヨチ歩きが出来るようになった頃。 まだ、離乳しておらず母乳のみで育てていたので、入院による強制的な断乳という形になった、
入院時に、ドクターの話を聞く。
超音波映像では、均一に見えているので比較的予後の良いタイプではないか?とのこと。
IVH(胸からチューブを心臓の近くの太い静脈に通しそれを使い輸血輸液をする)を取り付ける。 手術は高位除睾術−鼠径部を切開して睾丸と共に精索を根元から一緒に摘出。
術後の病理検査によりその後の治療を決める。転移が認められないようなら二週間くらいで退院、 通常の生活に戻れる。
手術当日、お母さんが、泣く息子をひと抱きした後、輸送ベッドで手術室に運ばれる、 他に二件、やはり同じ時間の手術らしい家族が居たが、お互い言葉はかけられず。
おもいがけず長引く手術に少し不安になる、そして四時間かけて手術終了、まだ麻酔が切れていないのだろう、 驚いたようにこわばった表情の息子を見て少々、ビクッとしたが看護婦さんから「無事終わりました、 縫い目もきれいに出来てますよ」の言葉にホットする。
手術終了後、ドクターから話を聞く
摘出した睾丸(中を見るようにカットして在る)を見ながら、
「直径やく2センチの腫瘍、おそらく比較的予後の良いタイプと思われます、病理検査にまわして確認します。」お母さんの手を握り「よし!よし!よし!・・・」ホッとした。
数時間後、面会時間に病室の息子と再開、動けないようにベッドに縛り付けられ、胸につながるIVH、 服の隙間からかいま見える包帯・・よくがんばったねと思い、見つめた時、こみ上げる物があった。
CTスキャン・病理検査の結果、そして
病理検査の結果;非セミノーマで卵黄嚢腫瘍という組織型
CTスキャンの結果;転移を認めず。
しかし、AFPの値が予想されたような下がりかたをしない。(下がってはいるものの、緩慢) CTスキャンで捉えられないくらいの転移巣があるのでは?という事で抗がん剤治療をする事に決定。 ビンブラスチン・ブレオマイシン・カルボプラチンの三種多剤併用。一月に1サイクル(三日間投与) で4サイクルの予定。
転位なく、二週間位で退院するつもりでいたので、四ヶ月の入院にはショックを受けた。 治療の合間に体調が良ければ、一週間位の外泊も可能との事、自宅に戻るのに外泊とは、悲しい。
小児外科病棟から小児内科病棟に移動、ドクターも泌尿器科から小児内科のドクターに変わる。 外科の病棟に比べ内科の病棟は、やや空気が重い気がした。まして、幼稚園以下くらいの子供たちの 病室、面会時間の終了時には、相乗効果か一人泣き出すと連鎖反応でウワーっと大合唱、私たち両親は、 後ろ髪を引かれつつも振り向かずに家路に就く。
最初の抗がん剤治療
約半日かけ、三種類の薬を順番に、そして、薬が滞らないように多量のブドウ糖液と共に投与。 三日間想像をしていたような激しい副作用(白血球・血小板の急激な名減少や脱毛等) もあらわれず一安心するも、AFPの値がドクターの想定していた ように下がらず、次回から投与方法を、八日間かけて投与する方法に変更するとの事。
一回目から二回目までの間のAFPの値の変化
18.5 > 11.1 > 17.0 > 13.2 > 11.7 > 13.0 > 18.2 > 16.6 > 10.7
治療のサイクルの合間に外泊の予定だったが炎症反応がみられるとのことで 外泊見送り、結局IVHの接続個所に菌が入り炎症していると判明いったんIVHを 取り外す事に、次回は通常の点滴と同じように手や足の甲に針を刺して投与する事に。
通常の点滴による二度目の投与
投与二日目、針が血管から外れ、足の甲にもれる、解毒剤を注射したが翌日パンパンに 足が腫れ一週間戻らず。抹消の血管だと抗がん剤で血管がもろくなるので手や足の色々なところに 針が差し替えられる、幼児のためムッチリとした手足では、血管が探しずらく何度も刺す事も有るらしい。 じっとしていることもできないので、外れやすい。それを見ながらの八日間は、さすがに長い。
そんな事で、次回三回目の投薬前にIVHを再度取り付ける事に、しかし、 これがまた炎症などを起こして取り外さなければ ならなくなると、三度目はできないらしい、心臓に入る太い静脈が左右一本づつだから?
一歳の幼児の体にすでに三個所の傷痕・・・
二回目から三回目までの間のAFPの値の変化
7.5 > 17.9 > 5.7 >16.7 > 12.1 > 7.7 > 7.2 > 6.7
別系統の抗がん剤の追加治療、決定
三度目の投薬の前にドクターから、「AFPの値が期待する値に落着かないので、 別系統の抗がん剤治療を、追加しようと思う」とつげられる、 予定の4サイクルが3サイクル追加、更に通院で三回の投薬になる。
睾丸腫瘍に有効な薬をすべて使う形に、これで結果の出ないようなら、 更に強い抗がん剤治療をして骨髄移植に望みを託すようになるらしい。
今はとにかくすべての治療が無事に終わり、その結果を待つだけ。 予定の半分が終わり、あと半分だ!という気持ちになっていたので、更に三ヶ月の入院確定はこたえた。
外泊
入院中も体の機能に、異常があるわけではないので、いたって元気、病気を知らない人が見れば、なぜ? 病院にいるのと思うくらい。抗がん剤治療の時にだけ、体にダメージを受け、さすがにつらそうでは有る、 食欲不振・発熱が一番よく表れた。大人よりは治療されているという意識のないぶん精神的なつらさは、 ないようで、比較的食欲、体力の回復も早い気がする。
入院からまる二ヶ月、二度目の投薬のあと、待ちにまった初めての4泊5日の外泊、 よその子が遊びに来ているようで、なんとも妙な気持ち。生活面では特に気をつける事も無く、 自由に遊べるので、うれしい。 分かっているとはいえ、病院に帰す日は、気が重い。このあと退院まで計四回の外泊をした。
病院に戻り、IVHを再度取り付け三回目の投薬が始まる。
三回目から四回目までの間のAFPの値の変化
10.5 > 6.8 > 6.5 > 6.4 > 13 > 15.6 > 14.7 > 6.7
四回目から五回目までの間のAFPの値の変化
五度目以降の投薬(別系統の抗がん剤)
シスプラチン・イホマイド・エトポシドの三種類を五日間かけて投薬。前回までの薬よりも 副作用やダメージが大きいとの事。
投薬終了後すぐに、骨髄にダメージを強烈に受け、 白血球・血小板の数値が激減( 白血球数が700に最低で400まで減少、 通常6000−7000位はある。)あらゆる菌に対する、抵抗力が弱まるので、 個室に移る、一人ぼっちは、さみしい。 ただテレビが見られたので、幼児向けの番組のある時は、うれしい。
十日間の個室ぐらし、その間に自分で血液を造れない状態なので輸血も経験。 個室の中でクリスマスを迎える。なかなか造血能力が回復せず、年末年始に外泊する予定が 見送り、外泊で人数の少なくなった病室で、新年を迎える。その後、なかなかダメージが回復せず 投薬の間が、一月半ほど開く、以後、治療終了まで 白血球数は、3000を超える事はなかった。
今回の治療で、完全脱毛する。当然だが眉毛・まつげ・体毛全部ぬけた、ベッドや服のそうじが大変、 目にみえる副作用などたいしたことではないと、分かってはいても・・・
五回目から六回目までの間のAFPの値の変化
6.7 > 8.2 > 16.2 > 17 > 15 > 10 > 7.6 > 11.2
六回目から多剤併用での最終回までの間のAFPの値の変化
7.5 > 19.1 > 13 > 10.1 > 8.1 > 8.8 > 7.7 > 7.8 >
最終回から退院までの間のAFPの値の変化
30 > 35 > 15 > 10 > 8 > 7.2 > 5.7 > 5.2 > 3.4 > 2.9 > 4.9
さすがに、30・35という数値には愕然とするが、次の検査の結果を見るまでは、 はっきりした事はわからないと思いつつ随時下がってゆく値には、胸をなで下ろした。
退院その後
「来週の月曜日、退院しましょうか」ドクターの言葉に不覚にも涙がこぼれた。
一年半・二年・生まれてからずっと入院している、そんな子達もいる事も分かってはいる、 そして、退院してからもまだ、治療・検査がある事も分かってはいるが・・ 「やっと、やっと退院だね・・・」息子にいい聞かせながら、涙がこぼれた。
退院後三回の通院による、エトポシド単体の投薬は、結局一泊二日という形を取って投薬した。 退院後もAFPの値は、5−10の間をうろつくが一定の上昇を見ないので、ようすを見てゆく事になる。
退院後6ヶ月たち、治療後のフォローの飲み薬を飲まなくてもよくなった頃から、 AFPの値の値が通常の数値を示すようになる。
治療費について
医療費の自己負担分を小児特定疾患医療費給付という公費で補ってくれたので、保健のきかない個室代(差額ベッド) などの費用以外の出費はなく、家計的には助かった。が後日送られてきた国民健康保険の医療費のお知らせの 息子の医療費の額にはおどろいた、毎月の分がわかるわけではないので、概算ではあるが、手術と10ヶ月の治療入院 でかかった保険診療額は、700万は下らないと思われる。実際に支払うとすると国民健康保険の三割負担で 230万円位の支払いだろうか?しかし、高額医療給付という制度が有るので、ひと月63,000円を超える 保険診療分の支払いは返ってくる筈なので実際の出費は63,000×10ヶ月で63万円位になるのかな、実際の支払いをしていないのでその辺はよく分りません。
1998年-現在5才
治療終了から三年がたち、今年、幼稚園に入園、元気に園生活を楽しんでいます。 現在、年に二回程度の採血による定期検診。あいかわらず手の甲からの採血だが 常々、「お父さんの方を見てて、痛かったら泣いていいからね」と我慢は強制しなかったのに今回、 針を刺すのを見ながら我慢している姿を見て成長を感じた。
2009年-現在15才
小学校、中学校と野球少年として過ごし、薬物治療による高周波帯の難聴が発覚しましたが 特に生活上に不都合は無く現在、高校入試を控え家族仲良く生活しております。
患者と語るガンの再発・転移(三省堂)近藤 誠
「がん」ほどつき合いやすい病気はない(講談社+α文庫)近藤 誠
家族の絆(神経芽細胞腫)
星の王女さま(骨肉腫)