「紅茶」
神戸市の世帯当たり年間紅茶の購入金額は1464円と全国一(「家計調査」平成19〜21年平均 総務省)。全国平均が799円だから、2倍近い。これは神戸が港町であることが大きく影響している。港町は各地から人や情報が入ってくるため、どこでも新しいもの好きな人が多い。パン食もゴルフも映画もラムネも神戸から始まった。好奇心旺盛なのである。 紅茶発祥の地は中国と言われているが、日本に紅茶が入ってきたのは、明治時代。イギリスから入ってきた紅茶は、始めは上流階級の人たちの飲み物で、一般の人にまで広まるようになったのは20世紀に入ってからと言われている。神戸は明治期に開港したところであり、当時は大英帝国との貿易が盛んだった。神戸は港に近い地区には外国人居留地が設けられ、市街は、イギリス人技師ハートによって、西洋的な区画整理が実行された。また、神戸で最初に牛肉店を始めたのはイギリス人のキルビー、洋服店を始めたのもイギリス人のカペルと、当時は特にイギリスの影響が強かったのである。紅茶=イギリスと言うことを考えると神戸の紅茶好きも納得できる。そう言えば、神戸の人はイギリス人同様に、他人をむやみに干渉しないし、どこか頑固なところがある。そういえば京都と神戸は仲がよくないが、京都人はプライドの高さからフランス人似、神戸はイギリス人似とみれば、さもありなんといえるのだが…

「明石焼き」
明石焼きとは約160年の歴史を持つと言われている兵庫県明石市の名物で、たこ焼の元祖(生みの親)でもある。明石焼きはたこ焼よりも軟らかく、銅の鍋とさい箸を使ってふわふわに焼き上げ、ソースではなくだし汁につけて食べる。なお、正式名称は玉子焼きだが、卵焼きと間違いやすい事などを考慮して明石焼きと表記している。玉子焼がいつ頃、どのようにしてできたかには2つの説がある。一つは明石の殿様に納めるお菓子を作る際に卵の黄身だけを使い、残りの卵白から玉子焼が生まれたという説。もう一つは天保年間(1830年〜1843年)に、江戸のべっ甲細工師、江戸屋岩吉と言う人が明石に滞在中の冬の寒い日に袖の下に鶏卵を入れたところ、不注意で卵が割れて白身が流れ出し凝固した。中略 彼は卵白の研究に取り組み明石玉を完成させた。明石玉とはサンゴの模造品の事で、残った黄身と当時よく取れたタコを利用して玉子焼が生まれたとする説である。 (明石焼きネットのホームページより)「播磨のつれ小便」という言葉がある。他人のマネが上手という意味だが、県民性からみると、明石焼きを作ったのは、ひょっとしたら江戸の人だったかもしれない。

神戸名物 蛸一の明石焼(冷凍食品)

「いかなごくぎ煮」
明石の漁師が“春(はる)告(つげ)魚(うお)”と呼ぶイカナゴ。くぎ煮作りは、明石の春の風物詩として定着しているが、もともとは神戸・垂水が発祥の料理とされる。明石で普及が始まったのは約20年前で、歴史は意外と浅い。昔は、明石の漁師に約3―4センチのシンコ(新子−生後数ヶ月の当歳魚)を狙う習慣自体がなく、5、6月、6〜7センチに成長したシンコを飼料用に狙うだけだった。売値はずいぶん安かったという。そこで、漁師らが目を付けたのが「くぎ煮」−イカナゴを醤油、砂糖(ザラメ)、みりん、生姜を使って甘辛く味付けしたもの−消費振興による収益アップが狙いだった。明石浦漁協婦人部や県漁連は、コープこうべなどと連携し、料理講師を養成。阪神―播磨間で料理教室を開いてPRに精を出し、少しずつ料理方法が広まった。そして、阪神・淡路大震災の後、明石や神戸の被災者らが支援へのお礼として全国にくぎ煮を送ったことが、普及に弾みをつけたという。最近は春になると、シンコの解禁日が話題になる。漁価は餌のころの約五倍に高騰。漁師たちの狙いは的中した。(神戸新聞のホームページより)明るくて軽快、金銭感覚の鋭い商人感覚のある明石人だからこそ、くぎ煮が出来たといってよい。

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