村浜武洋の日本の城探訪
村浜選手は、意外にも城マニアであります。 ということで、村浜選手が訪れた日本の数々のお城を紹介します。
(随時更新します)

姫路城
姫路城 外観は白鷺、中は要塞。 姫路城は白漆喰で塗り固められた白壁ゆえ、別名白鷺城と呼ばれています。白漆喰 を使っている理由は防火のためです。他の日本の現存城郭と同じで、姫路城は石造り ではなく、木造です。従って、防火は大変重要なのです。白漆喰は火に大変強く、な おかつ強固な補強材と言われています。そのため、壁だけでなく、軒から柱に至るま で、ほとんどの外面を白漆喰で塗り固められています。 城は海抜45.6mの姫山という小山の頂上に建っています。城の中心を成し、シン ボルである天守閣の高さは46.4mで、都合、海抜92mということになります。 姫路城はこの巨大な天守閣だけでなく、大変効果的かつ迷路のような複雑な防御の仕 組みで有名です。












大阪城
大阪城 豊臣秀吉は、柴田勝家を賎ケ岳の合戦で破った後、大阪の石山本願寺あとに大阪城を築いた。大阪夏の陣で天守閣は焼失。以降、徳川幕府の直轄として天守閣も再建されたが、落雷による火災、鳥羽伏見の戦いの後の不審火などで焼失。 現在の天守閣は、昭和6年、天守閣内の博物館に収蔵されている「大阪夏の陣屏風」をもとに、市民の寄付により再建されたもの。







岸和田城
岸和田城 岡部家3万石の居城。現在は本丸跡二の丸跡などがのこり、本丸には昭和44年に復興された天守がそびえる。内部は郷土資料館となっており、岡部家の遺品などが展示。展示内容は常設だけでなく期間により特別展も催されておりなかなか充実している。









小倉城
小倉城 歴史:慶長7年(1602)、関が原後移封された細川忠興の築城。当時は「唐造り」のお城と呼ばれ、全国でも珍しい存在だったらしい。ほどなく細川家は熊本へ移り、譜代大名の小笠原家が入り明治に至る。幕末、長州との戦争により城は大破(小笠原家は田川郡に逃げ、このため今でも評判が悪い)。近代は陸軍の師団となる。戦後、昭和34年、外観模擬天守が復興。
資料:小倉城庭園の中に大名屋敷が再現されている。小倉城にゆかりの深い小笠原氏関連の資料あり。
開館:入城は一般350円、中高生200円、小学生100円。休城は12月29日〜31日。開城時間は4月〜10月9:00〜18:00、11月〜3月は9:00〜17:00。
交通:[鉄道] JR鹿児島本線、小倉駅下車、徒歩15分。または、西小倉駅下車、徒歩5分。











福岡城
福岡城 関が原の合戦の勝利の功績で、黒田長政が、徳川家康から筑前の一国を与えられ初代福岡藩主となりました。 1601年より築城をはじめ約7年がかりで完成させました。
交通:[鉄道] JR博多駅から地下鉄、大壕駅下車、徒歩2分。








二条城
二条城 桃山文化の粋が結集されている二条城は、慶長8年(1603)徳川家康が、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿所として造営し、その後、寛永3年(1626)三代将軍家光が後水尾天皇を迎えるために大改修が行われ大体いまの体裁を整えました。 伏見城は1594年、指月山に豊臣秀吉が築城、聚楽第などの建物を移築し豪壮華麗をきわめます。しかし、1596年に大地震が発生し、壊滅的な被害を受け、秀吉はすぐに伏見山への新城の築城を命じ、翌年には殿舎、天守閣が完成します。 1598年、秀吉が没すると家康が入城します。1600年には家康が上杉討伐に出ている隙に石田三成の命を受けた軍勢が攻め寄せ炎上、灰燼と帰してしまいます。 その後家康が修復し畿内における徳川家の本拠となります。1603年に家康が、1605年には秀忠がこの城で将軍宣下を受けます。 しかし1623年、家光の将軍宣下を最後に廃城となり、建物等は各寺院や城に移築され見る事ができます。













小田原城
小田原城 歴 史 室町時代に大森氏の築いた山城が前身で、その後戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に整備拡張され、豊臣氏の来攻に備えた城下を囲む大外郭の出現に至った。問い合わせ小田原城0465-23-1373
交 通 車で・・東名〜小田原厚木線終点:30分、電車で・・小田急線(新宿→小田原):80分、東海道線(東京→小田原):60分











伏見城
伏見城 伏見城は1594年、指月山に豊臣秀吉が築城、聚楽第などの建物を移築し豪壮華麗をきわめます。しかし、1596年に大地震が発生し、壊滅的な被害を受け、秀吉はすぐに伏見山への新城の築城を命じ、翌年には殿舎、天守閣が完成します。  1598年、秀吉が没すると家康が入城します。1600年には家康が上杉討伐に出ている隙に石田三成の命を受けた軍勢が攻め寄せ炎上、灰燼と帰してしまいます。  その後家康が修復し畿内における徳川家の本拠となります。1603年に家康が、1605年には秀忠がこの城で将軍宣下を受けます。  しかし1623年、家光の将軍宣下を最後に廃城となり、建物等は各寺院や城に移築され見る事ができます。












霞ヶ城
霞ヶ城最上五十七万石城主最上義光公が築いた霞ヶ城である。 関ヶ原の戦いの功績により、村山・最上・田川・飽海・由利の諸郡を領有。現在の霞城公園のある本丸・二ノ丸以外に、三ノ丸、そして延々と土塁と濠をめぐらす山形城を有し、行政家として手腕をふるったのが義光公だった。 しかし、内部抗争が原因で孫義俊のときに没落。現在、石垣や土累・堀・復元された東大手門だけが姿をとどめているが、その栄華を偲ぶかのように、一千本の桜が咲き競うのである。










金沢城
金沢城 現在、金沢大学の正門となっている石川門は、金沢城の時代は搦手の門で、石川郡の方を向いていたので「石川門」と称した。 型式的には桝型門で、表門・多聞櫓・渡り櫓・菱櫓・太鼓塀から構成され、その全体を石川門といっている。 石垣の上の、腰に海鼠壁を付けた白壁に、鉛瓦のにぶく光るその姿は、周辺の樹木と相映じて四季を通じて美しい。 前田利家の入城以来整えられた金沢城は、宝暦9年(1759)の大火で全焼し、その後、天明8年(1788)に至って、ようやく再建された。寛政11年(1799)の大地震で損傷を受けており、文化11年(1814)に櫓を解体修理している。その後も修理を重ねながら、昭和28年(1953)から同34年(1959)にかけて大修理が行われ、現在の姿となった。











名古屋城
名古屋城 別名を金鯱城、柳城、亀尾城、蓬左城などと呼ばれ、徳川家康が加藤清正、前田利常、池田輝政等、豊臣家と縁の深い諸大名に命じ、慶長15年から4年間の歳月を費やし完成 した名城である。 このように、豊臣家ゆかりの諸大名に工事を命じた裏には、家康が関ヶ原の戦いで勝利 を収め、天下の覇権を握り、今後の安定政権を維持していく上で、彼等の反抗力を失落させる必要があった。そこで、この工事を請負わせる事により財力を消耗させ、武力をそぎ 自分に対する忠誠心を探ろうとする家康の深謀があったと言われる。 城郭は広大な土地に本丸を中心として、御深井丸、西の丸、二の丸で構成され、外郭に は堀を巡らし、要所には櫓を設けた。 本丸は将軍が来城時の宿舎として、二の丸は広大な御殿群を藩主の居所として、また、政務所として使用された。  元和2年(1616年)家康の9男・義直が清洲城から入城した。これを世に言う「清洲越し」といい、その後、御三家のひとつ、尾張徳川家が16代に亘って居城し明治を迎 えるに至った。