しかしこの計画は、大坂に道場を構えていた新選組隊士谷万太郎・三十郎兄弟の
下に密告され、元治2年(1865)正月8日の夕刻、谷兄弟らは石蔵屋を襲撃し
た。この日はほとんどの浪士は不在であり、本多大内蔵も逃亡した。しかし大利鼎
吉は即死し、また本多の妻は捕縛され、武器・弾薬・書類等は押収された。
 これにより大坂焼き打ち計画は未然に防ぐことができた。またこの事件の後、大
和地方で浪士による不穏な動きが伝えられ、慶応元年(1865)7月、幕府の命
を受け新選組の伊東甲子太郎、富山弥兵衛、茨城司、久米部沖見、篠原泰之進らが
出張している。

 ところで、土方歳三とともに副長を勤める山南敬助は、試衛館以来の近藤勇の同
志である。この山南が突然脱走するという事件が起きた。しかし近藤は、最近の山
南の様子の変化に気がついていたらしく、すぐに追手を出したため、近江大津で発 見され壬生へ連れ戻された。そして元治2年(1865)2月23日、局中法度に より切腹を命ぜられている。山南脱走の原因には2説ある。1つは、当時隊士が増 加し、130余人になっていたので、壬生では収容しきれなくなったと同時に、西 本願寺が長州藩と関係が深かったため、その監視の必要があった。それで西本願寺 の集会所へ屯所を移す話が出ていたのである。土方は本願寺への移転を主張したが、 山南はこれに反対で、しばしば他の適当な場所へ移すよう近藤に諫言した。しかし 近藤は土方の意見を採用したため脱走した、という説である。もう1つは、山南は 熱烈な勤王論者であり、か つ新選組の武断主義に批判的であった。今度の伊東甲子太郎の入隊により同じ勤王 論者である伊東と一脈通ずるところがあり、今後の行動に何らかの期待するところ があったらしい。その上伊東と山南がしばしば談論を重ねるため、近藤が山南を猜 疑の眼で見るようになり、ついに山南が隊を脱した、という説である。真相ははっ きりしないが、どうもこの両方が輻輳して、山南脱走という事態になったと推測さ れる。つまりこれは、屯所の移転問題に近藤・土方と山南との間の思想的な対立が からんでの行動と考えるのが自然であろう。

左上写真・・・・・山南敬助切腹を日野に知らせた沖田総司の手紙           「新選組写真集」新人物往来社より   

右写真・・・・・山南敬助の墓  「新選組写真集」新人物往来社より

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