新選組 <4>
 

第二節 活動期(文久3年〜慶応3年)       一、池田屋騒動中心に            (文久3年〜元治元年) [その2] 近藤勇   (「新選組写真集」新人物往来社 より) 
池田屋騒動により、宮部鼎蔵・吉田稔麿ら有能な人物を失うことになったが、こ の事件の結果として注目されることは、新選組によって多くの藩士を殺害された長 州を、幕府への武力を背景とした藩主父子の入京の請願へと踏み切らすことになっ たということである。長州はまず、久坂玄瑞・真木和泉が6月25日山崎に陣を張 り、つづいて福原越後が伏見に、来島又兵衛・国司信濃が嵯峨天竜寺に、そして益 田右衛門介が八幡に、それぞれ陣を張った。それに対して幕府側は、松平容保が6 月27日御花畠擬華洞に陣を張り、翌日守護職配下の諸兵を出動させた。新選組は 見廻組とともに、はじめ四塚方面の警備をし、のちに九条河原に陣を移した。この 時近藤勇は隊内に厳重な軍中法度(註17)を布告した。  ついに7月18日夜、禁門の変の口火が切って落とされた。しかし戦いは19日 のうちに長州側の完敗で終わったため、九条河原に陣を張っていた新選組は、直接 には戦いに参加しなかった。 7月21日、新選組は会津藩士200名と見廻組300名とともに天王山へ向かっ た。天王山には真木和泉ら17名の者が陣を張っていたのであるが、新選組が陣に 殺到したときには、すでに火を放ち、全員割腹自殺を遂げていた。  さらに新選組は長州の残党を捜索するために、7月23日には大坂に向かって いる。また禁門の変の後にも京都市中やその周辺では、佐幕派の諸侯に貼紙や投げ 文がしばしば行われた。そのため新選組は、その犯人の捜索や禁門の変の時長州と 関係のあった者の捕縛に大いに活躍した。  これら禁門の変、天王山の攻撃における会津藩と新選組の働きに対して、元治元 年(1864)8月15日に老中稲葉正邦から松平容保に将軍の台命として賞状が 下賜(註18)されている。 (註17)平尾道雄「新撰組史録」109−110頁。 (註18)翌元治2年(1865)正月には、朝廷からと思われる感状が新選組に下賜されている。

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