2001年韓国修学旅行感想文写真コンクール 入賞作品

キトリの韓国研修旅行

「新たな始まり」(2001)

 2000年6月13日、韓国の金大中大統領と北朝鮮=朝鮮民主主義人民共和国の金正日

総書記長が歴史的な会談をした。私はこのニュースを今でも鮮明に覚えている。

抱擁する二人の首脳の姿に、私は朝鮮半島の新たな始まりを感じ、

統一への第一歩を予感させられた。

 しかし現在なお南北朝鮮の間には38度線が走っている、という現実が横たわっている。

私はぜひともこの南北を隔てる軍事境界線をこの目で見たいとずっと思っていた。

 統一展望台…天気に恵まれず、残念ながら北朝鮮は霞んでよく見えなかったが、目の前に

あるのは、紛れもなく一つの国を分断する「軍事境界線」である。

この国は今もなお、戦争状態が続いているのだ。

南北ベトナムは統一されて復興の道を歩み、ソ連の崩壊で冷戦構造は

終結し、ベルリンの壁は崩壊して東西ドイツも統一された。

しかしこの朝鮮半島は今もなお、南北に分断されたままなのである。

 3年にもわたる朝鮮戦争の結果、270万人から360万人もの人が犠牲になり

離散家族は100万人にも達したという。

テレビでも首脳会談の成果である離散家族の対面の模様を流していたが、

長い間離ればなれになっていた親子兄弟が抱き合って涙する映像は、

悲劇以外のなにものでもないと思った。

そして初めて離散家族が出会った日、8月15日、それは日本にとっては終戦記念日である。

朝鮮戦争の原因を日本敗戦後の米ソの南北分割占領に求めるとするならば、

朝鮮半島を植民地化した日本の責任も私たちは自覚しなくてはならないであろう。

 研修旅行最後の日に訪れた「西大門刑務所歴史館」で目の当たりにした日本帝国主義が

朝鮮半島に残した傷痕。

「西大門刑務所歴史館の開館にあたり」に書いてあるように、植民地時代の韓国は

日本帝国主義によって「民族のプライドが傷つけられ、民族自らの発展が中断されるなど、

苦難の歴史」を歩んできたのである。

韓国の人々は「西大門刑務所歴史館」をはじめとして、不幸な過去の歴史を韓国人の立場で

歴史館・記念館として残し、新しい世代に伝えている。

私たちも不幸な過去から逃げることなく、しっかり過去を見据えることにより、

日本独自の形で、日本を背負ってきた曾祖父母たちと過去を共有していく必要を感じた。

なぜなら、過去を学ばずして平和で豊かな未来は有り得ないと思うからである。

 韓国は「恨(ハン)」の文化だと本で読んだことがある。

今もなお、韓国の人は日本の植民地時代のことを「日帝支配36年の恨み」と

表現していることも事前学習で知った。

その恨みは軍事境界線が消える日まで続くのであろうか。それとも…。

 軍事境界線の南北2キロずつの所に「非武装地帯」がある。

天気が悪かったのでぼんやりとしてはっきりわからなかったが、ここは人の立ち入りを

禁止しているので自然が残され野鳥の楽園になっていると本に書いてあった。

鳥たちは自由に南北の境界線を越え、行き来しているのであろうか。

しかし、私は思う。ここに鳥たちの楽園があってはいけない。

ここは朝鮮半島の人たちが自由に行き来できる道が通り、明るい笑い声が行き交う町や村で

なければいけないのだ。

私は統一展望台に立ち、そう確信した。

 建大附高との交流。階段を一段一段上がるにつれて、わたしの不安と緊張は大きくなっていく。

私のペンパルは日本のことをどう思っているのだろう。

私のことをどう思っていいるのだろうか。

 研修旅行までの手紙の交換。私はまだ見ぬ韓国の友に手紙を書いた。

返事が来た。私は胸を躍らせて再びペンパルに手紙を書いた。

1ヶ月、2ヶ月…、返事は来ない。もう一度手紙を書き、メールも送った。

しかしやはり返事は来ない。ひょっとしたら、彼女は私を嫌いになったのではないだろうか。

反日感情が強いと聞いている韓国。彼女も日本人が嫌いなのか。

私は日にちが経つに連れて、重苦しい気分になっていった。

 数ヶ月たった12月のクリスマス前、韓国から手紙が届いた。

私のペンパルは私のことを覚えていてくれたのだ。

この嬉しさを胸に、研修旅行に出発しよう。私の心は躍った。

 建物の中に入ると、もう建国附高の生徒たちは席についていた。

「私のペンパルもこの中にいるのだ。」私は緑色の自分の番号が書かれた紙を握りしめながら、

交流会が始まるのを待った。

 ついに交流会が始まった。両校の校歌、A Whole New World を合唱した。

すばらしい歌声だったと思う。この瞬間二つの附高の心が一つになった事を実感した。

 その後いよいよ個人交流の時間になった。私のペンパルはどこにいるのだろう。

数分後、「キトリ!」という声が聞こえた。

声の主はすばやく私の腕をとり、外へ連れ出してくれた。

挨拶を交わした後、ファーストフードの店に連れていってくれた。

彼女はほとんど英語が話せなかったし、私の英語も非常に拙いが、

私たちは間違えなく心を一つにして同じ時間を分かち合うことができた。

彼女のたくさんの友だちや先生も紹介してもらった。

楽しく有意義な時間を彼女たちと共有できたことに私は心から感謝したい。

 楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。ついに別れの時がやってきてしまった。

私たちは別れを惜しみながらバスに乗りこんだ。

バスの窓からペンパルの方を見ると、彼女は泣いている。

他の生徒たちの中には、肩を組みながら泣きあっている人たちもいる。

韓国の人たちは日本人と違い、感情をあらわにするということは聞いていたが、

短い時間にこれほどまでに私たちを受け入れてくれたのだと思うと、そのことがとてもうれしかった。

私とペンパルは別れ際に、これからも文通を続けよう、と約束しあった。

私たちにとって、今日は別れの日ではなく、新たな始まりの日になったのだ。

私は笑顔で彼女に手を振った。

 南北に分断され、戦争状態が完全に終わっていない朝鮮半島。

また日本と韓国の関係は歴史的に見て、現在も必ずしも良いとはいえない。

しかし今回の研修旅行で、少なくとも私たち新しい世代は、何のわだかまりもなく

友だちになれることが解った。

10年後、20年後、私たちが大人になった時、日韓関係はきっと良くなっていることだろう。

私は近い将来、再び韓国を訪れたい。

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