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上の写真は亡くなった父の書斎を整理していたときにでてきた複製写真です。 この写真のことは前に教えていただき知っていましたが、まさかそれが我が家にあるとは、と大変驚きました。父がすでに亡くなっているの で、この写真をどこで手に入れたか、またこの写真の詳しい説明などは全く解らずじまいでした。 ただこの写真はあまりにも謎が多すぎます。写した時期はいつか、場所は。何よりもなぜこれほどの大物たちが一同に会することができた のか、という疑問が残ります。坂本、中岡、高杉の死亡時期などを考えると、ますます疑問が深まるばかりです。それで私はなんとかその謎 を解明したいとずっと資料を捜していました。そして今回、やっと解説書に巡り会うことができました。 「幕末維新−写真が語る−」安田克廣 編 の中の「1 上野彦馬と写真にみる幕末・明治の人々」で、上野一郎氏執筆の部分にその謎が 解かれていました。 上野一郎氏は上野彦馬の弟のお孫さんです。そしてその上野彦馬こそ、上の写真を撮った日本の営業写真の祖なのです。 それでは以下にこの本からの引用を載せさせて頂き、上の写真の解説とさせていただきたいと思います。 彦馬が明治2年(1869)年に撮ったフルベッキと佐賀藩の若い侍たちとの集合写真です。フルベッキは安政6(1859)年長崎に来た ダッチ・リフォームド教会の宣教師です。元治元(1864)年8月、長崎外語学校斉美館(のちの廣運館、幕府設立)校長兼教師になり、 また、慶応2(1866)年佐賀藩立の長崎致遠館の教師も兼ねていました。写真の中のフルベッキの後ろ、斜めにかまえている黒服の侍が 西郷だと称し、複写して売っている人があります。その説によりますと、これは慶応元(1865)年、「倒幕リーダーの歴史的結集」だそうで、 前列左から3人目が桂小五郎、左端が勝海舟、前列右から4人目、坂本龍馬、その上が高杉晋作、フルベッキの息子ウィリアムズの前が 明治天皇というのですから、これはちょっとついていけません。本当はフルベッキと佐賀藩の侍たち、明治2年(1869)年3月、フルベッキが 東京の開成学校の教師となって上京する前に彦馬が撮ったものです。
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幕末維新館「幕末写真館」で約100枚に及ぶ志士たちの肖像が見られます。
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