W h i t e B i r t h d a y i n 陰 陽
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雪の浜松
2003年の最後の旅は、たまりにたまった一年の疲れを癒すべく、温泉一泊旅行とした。暮れもおしせまった12月20日朝、浜松駅に向かうためクルマに乗ると雪がちらついていた。「おぉ、ホワイト・バースデーじゃん!!」と私はつぶやいた。2日後に迫る37回目の誕生日を先取りするかのような雪に、私の心は弾んだ。
浜松駅に着くころには雪も本降りになり、新幹線は遅れが出ていた。予定の列車は7時20分発の「ひかり292号」だったが、その一本前の6時55分発ひかり290号も到着していなかった。
結局30分遅れで、ひかり290号が到着。下手に指定席を押さえていたら、お金惜しさにもう30分待つところだったが、今回は金券ショップで買った回数券のバラ売りだったので、そのまま一本前の列車の自由席に悠々と乗り込む。掛川を通過する頃には空も晴れ渡り、品川には当初の計画通りに(25分遅れで)到着した。

雪の降る浜松駅ホームにひかり号到着


念願だった「signet」に足を踏み入れる


修行の旅と同様「初降り」空港では記念撮影

signet参上
羽田空港には萩・石見空港行き出発の1時間半も前に着いた。というのも、前回の辛い修行の旅の結果、全日空の「プラチナ」会員になり、晴れてラウンジに入れる資格を得たからである。搭乗券と「プラチナ」カードを受付で提示し、初体験のsignetに足を踏み入れた。カードラウンジと異なり、セキュリティ後にあるので搭乗時刻ぎりぎりまでここで粘れる。おかげで1時間あまりの滞在中に、生ビールをジョッキで3杯とトマートジュース2杯を胃に流し込み、搭乗時間にはタプタプだった。
北陸方面や北海道方面は、この寒波のため「天候調査中」の表示だったが、萩・石見空港行きエアーニッポン575便はオンタイムで出発。着陸時に多少揺れたものの12時15分頃着陸した。例によって、初めて降り立った空港で記念撮影するところなどは、まだまだ修行の旅の後遺症か…

「雪舟の郷記念館」の庭園を背景に筆者


重文「花鳥図屏風」の複製が陳列されていた

人麿と雪舟のまち
「萩・石見空港」といっても空港は益田市内にある。その益田市内は、この冬一番の寒波の影響で雪が降ったりやんだりしている。気温は3度で、かなり冷え込んでいる。この後、特急いそかぜ号で下関に行く予定なのだが、選択肢は二つある。このまま益田をひと歩きして2時間後の「いそかぜ」に乗車するか、30分後の鈍行で萩に先行し、1時間ちょっと萩を散策してから「いそかぜ」に乗るかである。迷った挙句、時間効率の良さを採って益田市内散策と決めた。萩はそのうちまた来るだろうとの読みもあった。そうと決まったら行動開始。駅前の観光協会に飛び込み、観光パンフレットを斜め読む。一読して判ったことは、益田が柿本人麿が生まれ、雪舟がその生涯を閉じた土地であるということだった。それぞれのゆかりの地は正反対の場所にあったが、バスの便の良さで「雪舟の郷記念館」に向かった。
その記念館は駅裏の小高い丘の上にあり、この天気の中、入館者は私ひとりであった。館内は「お宝鑑定団」に出てきそうな水墨画が飾ってあり(ただし全て複製)、雪模様の外の景色とシンクロしていた。30分ほどそこで過ごし、雪舟の墓(左上の画像)などにも立ち寄り、帰りはバスを使わずに歩いて駅に戻った。駅はすぐそこにあるのに、線路を渡るのに大回りしなくてはならず、時計とにらめっこであった。
国鉄型特急
14時50分発の小倉行き特急「いそかぜ」号は、駅に戻った時には、既にその姿を2番ホームに横たえていた。国鉄時代そのままの姿で山陰と北九州を結ぶこの特急を我々はいつまで見ることができるだろうか?今年山陰には新系列の気動車特急が誕生した。車齢40年に及ぶ列車が新型気動車に置き換えられる日もそう遠くはないはずである。
私は自由席喫煙車の進行方向右側に腰を降ろした。ほどなく発車時間が来て、エンジンの音も高らかに益田駅を発車。途中から始まって途中で終わるオルゴールに続いて車内放送。この空間は昭和のままだった。
発車して5分も経たない間に車窓は冬の日本海に切り替わる。雪とも波の花とも見分けのつかない白いものが、窓の外を舞っている。酒を飲みながらその様子を見るのは至福のひと時であった。

いまや国鉄色のキハ181が拝めるのはここだけ


季節風が日本海を吹き荒れ、波の花が舞う


夕陽が玄界灘を染めて一日目は終了

羽田空港で買った「シウマイ弁当」やら「小鯛寿司」やらをサカナにガンガン飲んでいたら、いつしか眠っていた。再び目覚めた頃には、夕陽が玄海灘を染めていた。薄明かりが残る下関駅に到着したのは17時30分。浜松では真っ暗な時刻で、あらためて本州の西の端に来たことを実感した。

湯田温泉
鈍行を乗り継いで湯田温泉駅に19時18分に着いた。駅から今夜の宿の「ホテルニュータナカ」(右の画像)へは歩いて5分くらいだったが、温泉場らしくない暗い夜道を歩いたので、ホテルが建つメインストリートのネオンにはびっくりした。あらためてJRの駅はホテルに当てにされていないことが分かった。
さて、今夜の宿はシングルルーム主体のビジネスホテルでありながら、屋上に露天風呂が付いている。さっそく浴衣に着替え、風呂に向かう。先客はなく、ゆっくりと貸切状態の湯船に浸かった。空からは白いものがひらひらと落ちてくる。思えばこの一年で温泉に行ったのは、元日の古牧温泉とこの湯田温泉くらいじゃなかろうか…。それじゃ年中疲れていても仕方がないナ。

湯田温泉は詩人中原中也の生誕地である


秋芳洞の入口にて筆者

しゅうほうどう?
明けて12月21日日曜日、秋芳洞行きのバスに乗るため、湯田バスターミナルへと歩いていると、通りから少し入った所に中原中也記念館なるものを見つけた。中也といえば「別離」という詩が思い出深い。まだ昭和の時代のころ毎日欠かさず見ていた「夕ニャン」が終わってしまうということで、それはそれは悲しかったのであるが、その最終週で大竹まこと氏が「別離」を朗読し、隣にいた渡辺満里奈を号泣させたというシーンを思い出してしまった。なんか甘酸っぱい思いを胸に、湯田温泉にもう一度来ようと心に刻みつつバスに乗った。
さて、この旅の主たる目的地である秋芳洞・秋吉台だが、私は前者を「しゅうほうどう」、後者をあきよしだい」と呼んでいた。しかし秋芳洞が近づくにつれ、それが誤りだったことが分かった。道路標識のローマ字が「Akiyoshido Cave」となっていたからである。思えば地元の人に「しゅうほうどう」って連発していた。後になって赤面した次第である。
秋芳町(しゅうほうちょう)にある秋芳洞(あきよしどう)に来るのは初めてである(やっぱりややこしい)。当初は地元の「竜ケ岩洞」に毛が生えたくらいのものというくらいの軽い気持ちでいたが、入ってみてそのスケールの大きさにびっくりした。全長1`と、長さ的にはそう大したものではないが、洞穴の幅の広さは日本随一だろう。特に「百枚皿」と呼ばれる段々畑のような鍾乳石が印象的だった。また「黄金柱」は照明の加減で、それこそ金色に光っていた。そこには記念撮影用の雛壇があり、カメラマンも待機していたが、私は携帯のストロボを自分の顔に当て、セルフタイマーで苦労して記念撮影をした。
秋芳洞は正面入口の他に、黒谷口、秋吉台に抜けるエレベーター(洞穴の中間にある)と3ヶ所の入口があるが、私は正面から入って、黒谷口の手前で引き返し、エレベーターに乗って外に出た。全て観てまわるのに、かれこれ40分くらいかかった。

秋芳洞の中で最も広い「千畳敷」


「黄金柱」にて苦労して記念撮影


限られた時間の中で、秋吉台のベストポジションを探し当てた

広大な秋吉台
私はここに来るまで、単なる洞穴である秋芳洞より、広大な印象がある秋吉台の方を楽しみにしていた。しかし予想外に秋芳洞が良かったので、秋吉台はどうでも良くなっていた。エレベーターの出口から秋吉台に向かって続く遊歩道のだらだら坂に、かなりかったるくなっていた。途中、バス停で帰りのバスの時刻を確認し、「それじゃ、ここまで来たついでにちょっくら見ていきましょう…」という軽い気持ちで展望台に向かった。すると、広大な草原が眼前に広がり、カルストと呼ばれる岩が点在している。日本離れしたこの景色に、私は思わず息を飲んだ。私は、帰りのバスの時間を気にしながら、なるべくこの広大な景色を表すことが出来る場所を求めてロケハンした。そして丘の上にケヤキの木が立つ、ベストポジションを探し当て記念撮影をした。バスの出発時刻まで10分を切っていた。

カルストが点在する日本離れした景色


10月のダイヤ改正を機に「新山口」に変わった


旅の終わりは「レ−ルスター」

私の旅は「つづれおり」
秋吉台から秋芳洞でバスを乗り継ぎ、11時20分発の新山口駅行き防長バスで帰途に就く。貸切バスタイプの車輌で気分がいい。冬の柔かい日差しの中、キャロル・キングの「つづれおり」アルバムが耳に優しい。「つづれおり」がここまでぴったりきたのは1996年の暮れの五能線以来だろうか。ちょうどアルバムを聴き終えた12時3分に、バスは新山口駅に到着した。
この10月のダイヤ改正で「のぞみ」が停車するようになったのを機に、この駅は小郡から新山口に改称された。その架け替えられた駅名をバックに記念撮影をしたところでタイムオーバー。私は新幹線ホームに駆け上がり、12時13分発の「ひかりレールスター360号」の乗客になった。いつも思うがレールスターの指定席はグリーン車みたいで快適である。私は軽い疲れを覚え、ゆっくりシートを倒した…
<おわり>

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