プ チ 北 海 道 を 歩 く
おなじみのホームライナーで旅立ち

2月下旬に九州に行って以来、実に5か月ぶりの泊まりの旅。とはいっても、いきなり北海道や沖縄に行く気にならず、ごく近くに泊まる。そんなわけで県境から4キロほど外に出た、山中湖のホテルを予約した。

今年は梅雨明けが遅く、旅行当日の7月29日になっても雨季が続いている。ホテルを予約した6月中旬ころは、泊まる当日には盛夏を予想していたのにがっかりである。ただし今回の旅は昭和62年6月に行った場所の再訪という目的もあるので、梅雨明けしていないとうシチュエーションは、当時の情景の再現率を上げるかもしれない。

昭和62年2月に小型限定ながら自動二輪の免許を取得し、その年の春休みにバイトをして貯めたお金で、スズキRG125ガンマを手に入れた。それからは嬉しくなって、休みになると県内のいろんな所にバイクで出掛けた。そのうちバイクで北海道に行ってみたいという野望に目覚め、その年の8月の終わりから9月中旬にかけて北海道をツーリングした。北海道に行こうと思ってから、今回再訪するプチ北海道に出会ったのか、あるいはプチ北海道を見て北海道に行きたくなったのかは、今となっては定かではない。はっきりしているのは、県内に北海道っぽい場所があり、こんな時代で北海道に簡単に行けなくなっても、気軽に北海道っぽい体験ができるということである。

さて、昭和62年にそのプチ北海道を訪れた時、今でもその景色とともに印象に残っている曲がある。それは松岡直也のアルバム「ハートカクテル vol.1」に収録されている「彼のパパは東へ行けといった」である。そもそもハートカクテルは、わたせせいぞうのコミックだが、昭和61年にアニメ化されて深夜の5分番組として放映されていた。その一話一話に松岡直也がBGMをつけており、そのため1曲あたりの時間は2分半程度と短く、松岡直也としてはポップでキャッチーな曲が揃っていた。今まで聴いていた松岡直也の世界観とは異なる曲調にハマってしまい、1987年の春夏はこのアルバムばかり聴いていた。そのため北海道を思わせる景色に出会った時、「ハートカクテル」の中でも壮大な感じの「彼のパパは東へ行けといった」を連想したんだと思う。

富士駅を8時45分に発車するぐりんぱ行き富士急バスに乗車。途中の吉原中央駅でほとんどの乗客が下車し、鬱蒼とした森林の道を登るころには、乗客は私一人だけの貸切状態となった。標高が高くなるにつれて霧が深くなり、10時すぎに終点の遊園地ぐりんぱに着くころには、雲の中に迷い込んだような濃霧だった。

ぐりんぱの入園料は1,300円と、かなりいいお値段なので、もとより入園するつもりはなく、雨の中じっと次のバスを待った。次は10時40分発の御殿場行き。30分ほど乗車すると、33年ぶりに再訪するプチ北海道に着くはずである。裾野市須山という集落を抜けて、しばらく走ると突然開けた場所になる。建物が全くない道路と荒野だけの場所が1キロ以上続く。ここが、私がプチ北海道と呼んでいる陸上自衛隊東富士演習場の一角、国道469号線の裾野市と御殿場市の市境である。

春木橋というバス停で下車し、須山方面へと歩いて戻る。昭和62年6月には、御殿場側から裾野に向けてバイクで走ったので、ちょうど一緒の向きである。現状では、本物の北海道の原野の風景も見てしまっているので、当時見たプチ北海道の景色とごっちゃになってしまい、「当時と何も変わらない」景色とは言うことができないが、何となく記憶に残る心象風景がよみがえってきた。そして「ここぞ」という場所で、ちょうどヘッドホンから「彼のパパは東へ行けといった」が流れた。ここに再び訪れることができて良かった。霧は晴れたが、どんよりとした曇り空で、富士山も箱根外輪山も見えないのが、逆に北海道らしくてよかった…。

須山地内のクラボウ前バス停で、1時間後のバスを捕まえ御殿場駅へ。わずか10分ほどの待ち合わせで、河口湖行きバスに乗り継ぎ、13時20分ころには山中湖畔に到着した。今宵の宿泊は「ホテルアレキサンダーロイヤルリゾート山中湖」。チェックイン時刻は15時以降ということだが、先に部屋に入らせてもらえないものか…。とにかく行ってみよう。

果たして、追加料金なしのアーリーチェックインの希望が叶い、山中湖が一望に見渡せる5階の部屋に、13時半過ぎに入ることができた。おそらく中国系のインバウンドを受け入れていたホテルだと思うが、インバウンド客が0になってしまった昨今では、バーゲン価格で私のような1人旅の客の予約を受けているのだろう。ちなみに1泊朝食付きで9,000円税込み。それでいて部屋の方はバカみたいに広い。やたらと奥行きのあるリビング(途中にダイニングテーブルを置けそうなスペースあり)に、8畳の和室。そしてツインのベッドルームが別にあって、トイレとバスルームは別々。おそらく中国のお金持ちが、家族全員で宿泊するようなスイートルームである。そういえば去年の秋に、山中湖の隣の忍野八海で、すれ違う人のほとんどが中国系のインバウンド客だったことがある。あの観光客が一気に蒸発してしまったので、富士五湖界隈の観光施設は大変である。

感染症予防のため、大浴場は閉鎖しており、内風呂に入ってしまうと、もうやることは呑むことだけ。新型コロナウィルスが流行る前から、夕食は外で食べないという旅をしていたので、部屋呑みでも全く苦にならない。こんな旅なら感染症のリスクは低いんじゃなかろうか。気温は20度ほどしかないので、窓を開けるとちょうど心地よい。一人で泊まっているので換気を心配することはないが、そこはそれ「気は心」である。

いつもの旅のように、酔っぱらって早寝を決め込んだが、立派なツインベッドの寝室にエアコンがなく、外気はこの時期としてはかなり低いのに、暑くて何度も目覚めた。リビングのエアコンをがんがん効かしても、ベッドルームには冷気が来ないので、結局あきらめた。和室に布団を持って行って寝ようと思ったが、面倒なのでそれもやめた。暑いのを我慢して寝るしかないようである…。


富士駅からは富士急バス乗継の旅


ぐりんぱの入口にて筆者。かなりの濃霧


濃霧の中、御殿場行きのバスに乗車


北海道を走っているように当時は感じた


丘の重なり具合が美瑛のパッチワークの丘っぽく見える?


まだ北海道に行ったことがない頃、この陸上自衛隊東富士演習場の景色に出会い、北海道を夢見た

翌日は、ホテルをチェックアウトしたら一気に家まで帰るだけである。午前10時がチェックアウトなので、ギリギリまで部屋にいた。チェックアウト後はバスの時刻まで、湖畔を散策となるはずが、朝から今の今まで降っていなかった雨が、ホテルから出たと同時に降り出してきた。なるべくカサを使いたくないので、小降りの間は我慢していた。バス停には屋根がなく、そのうち本降りになった。仕方がないので、折り畳み傘を開いた。バスは遅れて到着し、背負っていたリュックはびしょ濡れになった。

バスに乗車してから、ものの10分で静岡県内に戻ったが、そこからが長かった。東名御殿場を11時50分に発車するバスを予約しているのに、片側交互通行による工事渋滞で遅れは広がる一方。11時を過ぎたのに、まだ須走あたりを走っているのだからイライラは募る。そのうち御殿場駅からタクシーを使うしかないかと諦めムードに。結局バスは御殿場駅に11時25分ごろ到着した。駅から御殿場インターまで1.2キロほどなので、当初の予定通り徒歩連絡でも間に合うと算段し、傘を差しながら速足で歩いた。東名御殿場に着いてから10分も経たないうちに、予約していたバスが入線してきた…。

このコロナ禍で高速バスも大打撃を受けた。緊急事態宣言が出ていた頃に、新型コロナウィルスに感染した人が、感染しているのを知っていながら高速バスを利用していたと報じられたのも一因かもしれない。東名御殿場を11時50分に発車した東名スーパーライナー55号の乗客は、私が乗った時点で、私を含めて3人しか乗っていなかった。コロナ禍前までは、乗客の大半を占めていた大学生を含む若い人たちが全く乗っていなかったのが象徴的だった。


松岡直也のハートカクテルがお似合い


御殿場の向こうの箱根も霞んでいた


リビングの奥行きも広め

東名ハイウェイバスに乗るのは約1年ぶりである。感染症の関係で割と間が空いてしまったが、実際久しぶりに乗ると、やっぱり東名バスはいいなぁと思う。そもそも私が東名バスを好きになったのは、まだ国鉄時代のことで、白をベースに青と銀のラインが入り、ツバメのマークがカッコよかった。いわゆる国鉄専用形式というやつである。それから時代は下って、昭和50年代後半の高校生の時、通学途上の浜松駅バスターミナルで、遠鉄バスとも市営バスとも違う変わったカラーのバスが発車していった。毎日同じ時間に目にする、その観光バスのようなバスは、後日「東名浜松静岡線」のバスであることを知った。それから数年後、大学の下宿との行ったり来たりに、そのバスを頻繁に利用することになるとは夢にも思わなかった。高校生の行動範囲では「新静岡」という行先表示も、ずいぶん遠くに思えたものである。

昭和末期の学生時代は、浜北と静岡の往復で、遠鉄バスや静鉄バスの高速バスに数え切れないほど乗車したが、もうその頃には両社共通のカラーをやめて、遠鉄も静鉄も観光バスと同じカラーに改めていた。またバブルの時代であったので、国鉄改めJRの東名ハイウェイバスも豪華仕様に変わっていった。スーパーハイデッカーや2階建て車両が登場し、マルチチャンネルステレオを備え付けのヘッドホンで楽しめる車両も多かった。JRの在来線に211系が導入され、徐々にロングシートの車両が増える中、在来線より運賃が安く、しかもリクライニングシートを備える東名バスは、アコモデーションおたくだった私を魅了した。この時期が東名バスを最も利用していた時代だった。

社会人となった平成元年以降は、それまでと比べて東名バスに乗車する頻度は減ったが、やはりコストと快適さが魅力で、時間が許す限り旅で利用している。特に今や絶滅危惧種となっているダブルデッカーの東海道昼特急には、指名買いで乗っていたほどである。現状では、感染症の影響で減便され、ダブルデッカー車両は運休となっており、そのまま引退という事態にならないかヒヤヒヤしている。早くこのコロナ騒ぎがおさまって、引退までの短期間ではあるが、何度も乗りたいものである。

閑話休題。東名沿線で私が最も好きな区間は吉田IC〜菊川IC間の牧之原越えである。ここのアップダウンとカーブはハイウェイの象徴のような気がする。この区間を過ぎれば、もう家に帰ってきたようなもの。磐田原台地から天竜川へと下るところで浜松の街並みが見え、浜松インターを過ぎれば、ほどなく東名浜松北バス停。御殿場からの運賃は2,400円。わずか2時間ほどで到着してしまうので、まだまだこのまま乗っていたいという気分になる。後ろ髪をひかれながら、遠鉄電車の自動車学校前駅に向かった…。


ホテルアレキサンダー山中湖に宿泊


8畳の和室が付いていたが無用の長物


ベッドルームは別室だった


部屋からは山中湖が眺められる


時節柄朝食は定食形式だった


やっぱり東名バスが好き

<終>

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