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Spring Tour 2001〜

はるたび山陽路

序章・伊吹山
1987年、JR発足当初の鳥取〜岡山〜高知を旅した「西のサイドラインTour」以来、恒例のSpring Tourは今年で15年め。今年は岡山・広島という山陽路の雄都に春を求めて旅立った。意外にも岡山、広島の各都市は通過するだけで街歩きを経験したこともなく、思い切りベタな旅であるがとりあえず後楽園と原爆ドームには立ち寄ってみようと思った。
2001年3月2日(金)、まずは浜松より「こだま405号」9:13発で西に向かった。雲は多いもののまずまずの天気で、沿線の名峰・伊吹山もくっきりと見えた。春先の西に向かう旅の場合、この雪を被った伊吹山が最初のビューポイントで「あぁ旅に出たんだぁ」ということを実感する。それこそ10数年前には、この伊吹山と雪景色を観たさに「冬の大垣ツアー」を恒例行事にしていた時期もあった。ほどなく「こだま」はスピードを緩め米原駅に滑り込んだ・・・
車窓から伊吹山を望む
第二章・スーパーはくと
岡山に向かうのに米原で途中下車した理由は、JR西日本の株主優待券を使って、割引きキップを購入するためである。とりあえず広島までの乗車券と「スーパーはくと」の京都〜上郡、そして岡山〜広島「ひかりレールスター」の指定席特急券を買った。すぐに新快速に乗り込み京都を目指す。平日のお昼前というのにけっこうな乗車率で、草津あたりでは立ち客が出るほどであった。
京都からはお待ちかねの「スーパーはくと5号」に乗車。指定券を買ったにもかかわらず自由席に乗り込みベストポジションを確保。というのも指定された席は通路側。普通、指定券を1枚だけ買うと空いていれば窓側の席になるから、指定席はかなり乗車率が高いことが予想された。案の定、後で指定された車輌を覗いてみたら満席で、団体客が宴会をしていた。
12:24、エンジンの音も高らかに京都駅を出発。新大阪までの区間では列車線を走る当方と、電車線を走る快速電車と抜きつ抜かれつのデッドヒート。迫力のある車窓が展開した。
「スーパーはくと」は大阪を出ると上郡までの停車駅は三ノ宮、明石、姫路の3駅のみ。神戸のような大駅や西明石、相生といった新幹線駅も通過してしまう。往年の昼行山陽特急のような眩さがそこにはある。シートピッチの広いリクライニングシートは快適で、あんまり快適すぎて居眠りしてしまう始末。目覚めると姫路で下車駅の上郡まではあと一駅であった。
ところで「スーパーはくと」に使用される車輌は第3セクター智頭急行所有のHOT7000系という振り子式の特急専用車。山陽線内では、その振り子機能を固定して走行すると聞いていたが、姫路以西のカーブのきつい区間に入ると振り子列車特有の車体の傾きが感じられた。
京都駅にスーパーはくとが入線
快速電車とデッドヒートを繰り返す
第三章
Twilight
Pavement
ほどなく上郡駅に到着。時刻は14:14。上郡からはJR西日本の男性車掌から、智頭急行の女性車掌に引き継ぐため、若い女性が出発の笛を吹く。赤い制服が眩しかった。
智頭急行線は女性車掌が引き継ぐ
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上郡からは鈍行で岡山へ。天気は晴れたり曇ったり。駅に停車してドアが開くと寒風が吹き込み思いのほか寒い。1時間に1本のローカルダイヤに持ってきて115系電車3両編成と短く、県境の閑散地区ながら車内は終始立ち客が出る混みよう。これで春休みの学生が18キップを持って乗り歩く時期だったらと思うとゾッとする。電車は約1時間かけて56.8`の区間をゆっくりと走り、15:31岡山駅に到着した。
西口正面の「ホテル第一イン岡山」にチェックインし、自室で「さてこれからどうしようか」とFMラジオを付けた。するとラジオから懐かしい声が・・・。3年前まで地元K-MIXでアナウンサーをしていた江坂英香さんが、当地で「Twilight Pavement」という番組を持っていたのだ。最初は「ずいぶんDJスタイルが変わったな」と戸惑ったのだが、30分くらいもすると往年の江坂節になり、じっくりと腰を落ち着けて聴くことにした。ホテルの部屋からは岡山駅に発着する電車が良く見え、本日のTwilight Sectionに突入。かわきものをツマミにバーボンの水割りを飲みすっかり気持ち良くなってしまった。
ホテルの部屋から見下ろす岡山駅
あいかわらず、ゲストを迎えると、そのゲストの心理を深読みする江坂さんがいて、かなりとっちらかったインタビューになっていて懐かしかった。彼女が結婚したことも番組中に初めて知った。末永くお幸せに・・・。スティービー・ワンダーの「疑惑」をカヴァーしたエリック・クラプトンの泣きのギターを聴きながら、私の方はすっかり黄昏れていた。 第四章・後楽園
翌朝、岡山駅前から路面電車で後楽園に向かう。まずは、隣の岡山城を眺めてからにしようと思い、城山に登る。
岡山駅前に発着する路面電車 このところ戦国時代の歴史小説を乱読している私にとって、この城は興味深い。慶長2年(1597年)宇喜多秀家が築城したこの城は、秀家が関ヶ原の合戦で敗れ没収。関ヶ原の合戦で、いわゆる「裏切り」によって東軍の勝利を決定付けた小早川秀秋が城主になる。しかしその秀秋も西軍の怨念に悩まされ若くして狂い死に(?)する。結局、城は池田忠継に引き継がれ、池田氏のもと幕末まで治められたというわけである。こうした悲喜こもごもの歴史を踏まえながら、城を眺めるのが私は好きである。風も無く穏やかな春の日差しの下、ゆったりとした時間を岡山城で過ごした。
続いて後楽園へ。月見橋を渡って園内に入ると、どこからか笙と琴の音が・・・。後楽園は昨日3月2日が開園記念日ということで、この週末は「春の後楽園祭」ということでいろいろなイベントを開催していた。先ほど聞こえた邦楽の音色も、このイベントの一環であった。
広大な後楽園をくまなく回るうちにいろいろなものと出会った。まずはせせらぎの音。木曽の寝覚めの床を模して造られた「花交の森」と呼ばれる小さな滝の音であった。そこを過ぎると梅林があり、今を盛りと梅が咲き誇っていた(このページのタイトルの画像参照)。熱帯植物園の温室の入口からは、勇壮に建つ岡山城が旭川越しに望むことができた。また園内の一番のビューポイントである「沢の池」の周辺では、大勢の観光客が思い思いに散策を楽しみ、また池をバックに記念撮影をしていた。私もその一人であったが・・・。都合、園内で1時間余りの時を過ごして、存分に堪能し後楽園を後にした。
宇喜多秀家築城の岡山城 金の鯱越しに眺める後楽園
春の後楽園祭の開催中だった 広大な庭園をバックに筆者
中央の築山から沢の池を眺める 旭川越しに岡山城を望む
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第五章
ひかりレールスター

後楽園からは歩いて岡山駅に戻った。普段歩き慣れていないものだから、まだ午前中というのに足は筋肉痛を起こしていた。既に普段の2〜3倍は歩いているものと思われる。
東海道区間では見られなくなった現役の「0系こだま」を待避させて、わが「ひかりレールスター365号」は11:34に岡山駅を発車。車内は普通車ながら2列+2列とグリーン車並で豪華なのだが、岡山を出るとノンストップで次の目的地・広島に向かい所用時間は僅か37分。ゆっくりと腰を落ち着ける暇もなく、まさに「瞬間移動」の世界であった。時速285`で突っ走る700系新幹線の面目躍如といったところであろうか・・・。結局、足の疲れも回復しないまま12:11広島駅のホームに滑り込んだ。
東海道では見られないO系新幹線 まさに瞬間移動のレールスター
レールスター車内にて筆者 車体のロゴマークも誇らしげ
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第六章・世界遺産
広島駅にはもう戻って来ないので、旅の荷物をそのままかついで広島市内を歩く事になる。10`くらいあろうかというデイパックを背負っていると、広島駅前の電停まで歩いただけでまた足が痛くなってくる。広電の路面電車に乗り込んで、まず広島城公園を目指す。最寄りの「紙屋町」電停が2つあり面食らうが、二つ目の紙屋町で降りることにし「次も続いて紙屋町」のアナウンスで降車ボタンを押した。カープの本拠地広島市民球場を横目に北に向かって歩き出した。大通りから一歩入ると思いのほか静かで昼過ぎの散歩を楽しめた。
10分くらい歩いて広島城公園に到着し、広島駅で買った「しゃもじかきめし」の包みを開いた。数年前、会社の先輩に「広島駅で一番美味い駅弁はかきめしだ」と聞いて以来、気になっていたのだがようやく念願かなって食べることができた。広島名産のかきが炊き込んであるご飯が磯の風味豊かで美味く、さすがはイチオシの駅弁だと感じた。
広島駅前からは広電の路面電車で 念願の「しゃもじかきめし」を食す
別名・鯉城とよばれる広島城 お濠に影を映して佇む広島城
広島城は中国地方の雄、毛利氏が築いた城である。毛利氏は関ヶ原の合戦で名目上の西軍の総大将として出陣したが、傍観を決め込み間接的に東軍の勝利を後押しした。結果、毛利氏は防長二国に領地を狭められて広島城は福島正則のものとなった。後々、正則も徳川幕府にとって邪魔な存在になり、広島城修築の不備を咎められて失脚。代わって浅野氏が城主となって幕末まで代々広島城に君臨したのである。忠臣蔵で大石内蔵助の仇討ちを、再三に渡って阻止しようとした芸州浅野本家は、ここ広島城主だったのである。そんな歴史絵巻を思い浮かべながら天守閣に登る。最上階からは、市民球場の照明灯の間に原爆ドームを望むことができた。
さて、次は原爆ドームへ。ここはユネスコより世界平和を願うモニュメントとして「世界遺産」に登録された。当然、外国人観光客も多くドームの前で思い思いにカメラに収まっていた。私もカメラに収まった一人であった。そして元安川を渡って平和記念公園へと足を運ぶ。原爆死没者慰霊碑の前には今日も多くの花が手向けられていた。そして慰霊碑の先には平和の灯を通して原爆ドームが見えた。一瞬のうちに命を落とした人々を思いながら私は静かに合掌した。
そして楽しみにしていた平和記念資料館を訪れた。大学卒業間近の九州旅行で私は長崎の平和資料館を訪れ大きな感銘を受けた。そのころはまだ若く感受性も豊かであったため、今でもその時に受けたショックが脳裏に焼き付いているのだが、ここ広島でも似たような感覚があった。ただ、そのころより長く生きてしまった分マイルドであったが・・・。特に被爆を受けた方々の描いた絵にはいたく感情を揺さぶられた。死んでしまった我が子を抱えながら行くあてもなく呆然とさまよう若い母親の絵には胸を締め付けられた。二度とこのような悲劇を起こしてはならないというスローガンじみた言葉は陳腐であるが、ここで受けた感慨を胸に、これからは暮らしていかないといけないなと素直に思った・・・。
原爆ドームの前で佇む筆者
原爆死没者慰霊碑の前には花が
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最終章
フェリーボート

平和記念公園を後にして、東へ袋町の電停に歩く。16時を回り既に広島の街は黄昏が迫っていた。16:40ころ電車に乗り込んで20分ほど揺られる。終点の宇品電停の目の前が宇品港フェリーターミナルだった。ここから松山観光港で乗り継いで大阪南港までの船旅となる。
17:35に松山行きフェリーが出港。しばらくは夕暮れの瀬戸内の島々を見ながらの航路である。船内の売店でビールやらつまみやらを買い込み、船の揺れにまかせて、本日のTwilight Sectionとする。ビールの酔いが普段より早めに回って、一本でいい気持ちになってしまった。いつしか夜の帳も降りてナイトクルーズ。途中、呉に立ち寄り20:10に松山観光港に到着した。
黄昏せまる広島の街並み 松山行きのフェリーが宇品に入港
瀬戸内の島影に日が沈んでゆく 飛行機でいえばトランジット状態
松山観光港の滞在はわずか1時間あまりで、飛行機でいえばトランジットのようなものである。関西汽船のカウンターで乗船手続きを終えると手持ちぶさたになってしまった。松山観光港は約2年ぶりだが、その時と比べてずいぶんきれいに改装された。右上の画像のようなLEDの案内板もなかったもんなぁ。
21:30に大阪南港行き関西汽船「さんふらわぁにしき」は松山観光港を出港。例によって1等船室をおごったのだが、2人定員のところを一人占めできて快適だった。ただ神戸に早朝に立ち寄るため、朝の5時から船内放送がガンガン入り、それで睡眠不足のまま起こされてしまったのには参った。まぁ、部屋のスピーカーのスイッチを切っておけば良かったのだが・・・。船内のレストランで朝定食を食べ、定刻の8:40に大阪南港に到着。ここまでくるともう家に帰ったようなもので、ニュートラム、地下鉄を乗り継いで難波より近鉄アーバンライナー。名古屋で名鉄特急に乗り継いで、豊橋より鈍行に乗り浜松到着は13:58だった。

<おわり>

「さんふらわぁにしき」が大阪に接岸


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