センチメンタルジャーニー


日本最東端の空港からスタート

昭和天皇は在位中に一度だけ訪欧している。それは昭和46年の秋のこと。皇太子時代に訪れた国々を巡るセンチメンタルジャーニーであったが、オランダでは天皇の戦争責任を問う元兵士たちに遭遇した。と、昭和天皇崩御の時に、在りし日の思い出として新聞に掲載されていたように記憶する。私がこの記事をなぜ未だに記憶しているのかと考えるに、「センチメンタルジャーニー」の使い方が、それまで自分が使っている用法とはかなり違っていたからだと思う。センチメンタルジャーニーは直訳すれば感傷旅行。フラれた傷を癒しに行く旅だと思っていた。歌のタイトルでもあった。おそらくドリス・デイの歌ったセンチメンタルジャーニーに先に出会っていると思うが、「伊代はまだ、16だ〜から〜」のインパクトが強すぎて、センチメンタルジャーニーといえば松本伊代さんの歌というのが相場である。それはさておき、今回の道東の旅はセンチメンタルジャーニー。言葉の位置づけとしては昭和天皇の訪欧に近いと思う。

前回の旅(青森県内国道4号線ドライブ)の項でも記したが、今回の旅も1987年初秋に行った北海道ツーリングの想い出を辿る旅である。その時に初めて北海道に渡っているが、それ以降仕事も含めて数十回も北海道に行っている。しかし今回訪ねる野付半島と知床横断道路は、1987年にバイクで走って以来の訪問地である。特に野付半島のトドワラに至っては、全く記憶に残っておらず、当時の写真も散逸してしまった現在では、どんなところであったか手掛かりすらない状態である。根室中標津空港でレンタカーを借りた私は、まずその野付半島へと向かった。


野付半島の道の果て。マークXを駐車場に停めて、しばし野付埼灯台を見やる

空港から野付半島は想像していたよりも近く、半島先端の道路が果てるところまで、ものの30分ほどで到着した。どんよりした曇り空で、風が強く、小雨が横から顔に当たる。気温は15度ほどで、覚悟していたことだが最高気温30度の地からここに来ると、2ヶ月くらい季節が進んだように感じる。3キロほど付け根側に戻って、野付半島ネイチャーセンターに立ち寄った。狙いとしていたトドワラは、ここの駐車場から片道30分ほどの距離にあるらしい。これで疑問が解けた。いくらトドワラのことを思い出そうとしても、実際にトドワラを見ていないのだから思い出すわけがない。実際のところ、1987年のツーリングは1日平均350キロ以上走る厳しい行程で、トドワラを見るために1時間以上もバイクを離れるわけにはいかなかったのだ。ネイチャーセンターから、さらに5キロほど戻ったところにあるナラワラを、申し訳程度にズームを最大にして撮影し、野付半島を後にした。ちなみにトドワラとは、立ち枯れたトドマツの林の跡で、ナラワラとは同じくナラの木の林の跡である。トドワラは荒涼としており、ナラワラは白樺林のように見えるとのことだった。

野付半島から標津に戻り、次の目的地は知床峠。1987年9月初めに通った時にはセーターの上にヤッケを着るほど寒かった。今日も平地で15度前後の気温であるので、標高738mの峠では10度を割っているかもしれない。地元では半袖、短パン、ビーサンで過ごしているのに、バイクで知床横断道路を走るため、そこまでの服装を持って行った20歳の自分を褒めてやりたい。まぁそれはともかく、標津町の市街地を抜けると羅臼の手前まで人里離れた場所を走るため、自然とスピードが上がる。飛び出してくるエゾシカへの恐怖と、物陰に隠れたネズミ取りの脅威から、メーター読みで80キロまでとしていたが、地元車に次々と追い抜かれた。いくら抜かれようが、ここはアウェイの地。マイペースを守って知床半島付け根の海岸線を北上していった 。

標津町から羅臼町に入ると漁港が連続する。ひとつひとつの漁港に集落が形成され人の気配がする。大自然を突っ切っている間は速度標識が全く無いが、集落では速度制限が設定されるため、かなりかったるい。道の駅のところで国道335号は大きく左にカーブし、同時に国道334号と名を変える。この国道334号こそが通称「知床横断道路」である。羅臼川に沿って登っていくと、硫黄の匂いがして羅臼温泉の脇を通過。さらに登ると知床大橋を渡り、これを境に本格的な登山区間となる。平地を走っている間はそれほどメリットを感じなかった2.5リッターV6エンジンも、知床横断道路では真価を発揮。余裕のあるトルクでぐいぐい登っていく。マークU時代よりスポーツ側に振っている足回りも好ましく、小雨で濡れたタイトコーナーでも危機感を感じることなくスムーズに抜けることができた。そんな感じなので平地で次々と抜かれた地元車に、坂の途中で何度も追いつき、道を譲ってもらった。知床横断道路のような峠越え区間がメインになるようなドライブでは、多少お金がかかってもミドルクラス以上のクルマを借りておいた方が気持ちがいいということが分かった。

5合目、6合目という看板と、カーブ半径〇〇Mという標識を頼りに峠を上っていくと、次第に雨が強くなってきた。慌ててワイパーを動かし、ヘッドライトを点けると今度は霧。さすがにスピードを落とさざるを得ない。1〜2分ほど霧の中を走ると「知床峠」という看板が出現。割とあっけなく峠を登り切ってしまった。バイクで来た時には延々と登った記憶があるのに、こんなものかと半信半疑だった。峠の頂上付近だけ霧ということで、眺望もへったくれもあったもんじゃない。代替わりした「知床峠」の石碑を写真に撮り、トイレを済ませて再出発。ものの2〜3キロ下ると霧が晴れ、知床五湖への県道分岐点あたりでは日が差してきた。27年前のツーリングの時には、知床五湖に寄った後に知床峠に向かっているが、今日は逆回りの上に、五湖にも寄らず、早いとこ宿に入ってしまおうという魂胆である。峠道が終わって、海岸線に出て、ウトロ温泉街を抜けると、車窓右手に夕日が寄り添う。太陽がオホーツク海に沈んでいくさまを一部始終見届けることができた。日が沈んでオホーツク海と別れを告げると、斜里市街地はもうすぐ。17時30分ころ宿泊先である「ルートイングランティア知床-斜里駅前」に到着した。

知床斜里駅前にあるビジネスホテルだが、天然温泉の大風呂がウリで、風呂嫌いの私には珍しく露天風呂に浸かって極楽気分を味わった。その後は部屋に戻って酒盛り。同僚に「北海道に行く」というと、「美味しいものが食べられていいね」とか言われるが、一人旅の最中にほとんど美味しいものを食べたことがない。部屋呑みか飲みテツ主体なので、ほとんどはコンビニやスーパーで買った乾き物中心のツマミである。時が過ぎテレビを観ながら居眠りしていたようで、時計は午前1時半を指していた。もう一度ベッドに潜り込むと、次は窓の外が明るくなっていた。外を見ると雨。真下に広がる釧網線のレールが濡れそぼっていた。


2.5リッターV6の4GR-FSE型エンジン(ヤマ発製)


道道950号野付風蓮公園線の起点にて


野付半島ネイチャーセンター脇の石碑にて


往復1時間のトドワラは諦めナラワラで我慢


27年前と同じ霧の中の知床峠。石碑に変化が


ウトロ〜斜里間で見たオホーツク海の日没


ホテルの部屋からの風景。右側が知床斜里駅


ルートイングランティア知床-斜里駅前


根室国と北見国を分かつ根北峠


涛沸湖畔の放牧風景。藻琴湖畔と思い違い


中標津空港に着陸した763。折り返し羽田行き

二日目のルートは藻琴湖に行って、あとは空港に戻るだけ。藻琴湖は、湖畔に広がる放牧地を背景に、当時の愛車ガンマ125を撮影した地で、その写真を引き伸ばして今でも部屋に飾っている。その写真は透き通った青い空に斜めに絹雲がかかっていたが、今日はそんな風景は望むべくもない。とりあえずホテルを出て、国道244号を網走方面に走る。原生花園で有名な浜小清水を過ぎ、涛沸湖の看板が車窓をよぎる。「あぁ涛沸湖かぁ、藻琴湖までもう少しあるなぁ…」と思っていると、目指す風景はそこにあった。湖畔に放牧された馬の群れ。背景に広がる湖と低い山並み。毎日部屋で眺めているから、ここに間違いない。27年の時の経過は、記憶を涛沸湖から藻琴湖に変えてしまったらしい。まぁとにかく27年ぶりに撮影地を訪れることができて、これで満足。すぐに国道244号を斜里方面に戻った。

本日二度目の斜里市街地を抜けて根北峠へ。知床横断道路は冬季閉鎖になるので、こちらが迂回路になるが、根北峠自体も気象の悪化によってしばしば通行止になるらしい。となると雪に強い鉄道の出番となるが、斜里と厚床の間を結ぼうと建設が進められていた根北線は、斜里から峠の手前まで部分開通するものの、わずか13年で廃止に追い込まれた。ホテルの窓から見えた釧網線も、釧路から網走に抜けることができる列車は、一日わずか5往復。道東の冬の厳しさが思いやられるが、次回の北海道訪問は年越しの釧路連泊の予定。なるべく出歩かないようにしよう。閑話休題。根室国と北見国(現在の行政区分では、根室振興局とオホーツク総合振興局)を分かつ根北峠であるが、多くの他の北海道の峠のように観光地化されていない。駐車場ともいえないようなクルマを置けるスペースと、カントリーサインが目立つくらいなものである(上の画像参照)。小雨が降っていたこともあり、クルマのドアのところからズームで「根北峠」の看板を写してそれで終わり。そそくさと運転席に戻り、標津を目指して再びハンドルを握った。あとは根室中標津空港まで一直線。運転しながら、帰りのプレミアムクラスでの酒盛りを夢想していた。。。
<終>

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