郷 愁 か ら 追 憶 へ
〜バブル期車輛のお通夜〜

するがシャトル時代にお世話になった119系

ユーチューブでJR東海のCMを観ることにハマっている。昭和末期から平成に入る頃、「シンデレラエキスプレス」や「クリスマスエキスプレス」などで一世を風靡した、あのCMである。なかでもお気に入りは「プレイバックエキスプレス」。ベリンダ・カーライルの「ヘブン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」をBGMに使った1988年の5〜6月頃にオンエアされていたものである。その頃の私は就職活動中で、頻繁に新幹線に乗っていた。貧乏学生には新幹線は高嶺の花だったが、当時は志望企業からもれなく新幹線利用の交通費が支給された。バブル真っ盛りの頃だった。

その頃のJR東海のCMは、ほとんどが走行する100系新幹線のスローモーションで終わっている。いつもそのシーンで涙が出てしまう。100系に乗って東海道を行き来していた若き日々を思い出してしまう。どうもこの頃は涙腺が弱くなってしまったようだ。

この春のダイヤ改正で引退する車両の中でトップクラスに位置するのが100系新幹線だとすれば、全国的には無名に近い車両が119系だろう。飯田線専用車として昭和57年にデビューし、バブル華やかなりし頃は「するがシャトル」として、モーターを高鳴らせながら全速力で東海道本線を走った。ちょうど静岡市で学生生活を送っていた時によく乗った電車である。今回、仕事終わりにわざわざ豊橋まで出向いて乗ってみたが、全速力で走るときのカン高いモーター音は往年のままだった。思わず「頑張れ」と応援したくなるような、必死さが感じられる走行音。この車両も3月のダイヤ改正で213系にバトンを渡し、姿を消す…。


特急型の普通電車で豊橋を往復


飯田線は119系から213系にバトンタッチ


新宿から沼津に到着した371系あさぎり7号

バブル真っ盛りの時代に設計されたものは、鉄道車両に限らず、構造物や自動車においても「ゆとり」、「豪華さ」そして「遊び心」が感じられた。今では往々にして「時代のあだ花」的な評価を受けてしまうが、当時はそういったモノがデビューするたびにワクワクしたものだ。

鉄道車両において、そうした存在の最右翼だったものが371系だと思う。なにせJR東日本の本丸である新宿に、JR東海が毎日刺客として送り出す特急電車である。アルミ製車体が主流の時代に全鋼製の車体。製造したのは1編成だけ。前面は3次元の曲面ガラスで構成され展望機能付き。ボディカラーはJR東海の当時の花形車両だった100系新幹線と同じで、そのためデビュー当時は「浜松駅の在来線に新幹線が入ってきた」と話題になったものである。

1991年にデビューし、特急あさぎりとして小田急線経由で沼津と新宿を結んでいた371系は、その間合い運用で沼津⇒浜松間のホームライナーとして走っている。371系が3月のダイヤ改正で一般運用から外れ、その後は団体列車として運用予定だという。乗車する最後のチャンスということで、仕事終わりに沼津まで迎えに行き、ホームライナーで戻ってきた。ゆとりのあるシートピッチも相まって、晩酌のピッチが進んだことである。


夜は宇宙飛行士気分の展望席(天竜川駅通過)


デビュー時は在来線を走る新幹線といわれた

佐賀競馬収支表 (12.2.18開催)
レース 投資 回収 収支 累計
6R 1,000 270 -730 -730
7R 2,000 720 -1,280 -2,010
8R 2,000 0 -2,000 -4,010
9R 2,400 1,970 -430 -4,440
10R 5,000 1,640 -3,360 -7,800
11R 3,600 2,220 -1,380 -9,180
合計 16,000 6,820 -9,180 42.6%

さて、本命の100系新幹線に「さよなら乗車」をするには、少なくとも岡山以西に行かねばならない。また、どうせ乗るなら少しでも長時間乗っていたい。というわけで最長区間(博多→岡山)を走る唯一の列車「こだま766号」の時間に合わせて行程を組んだ。せっかく博多まで行くのに、ただ往復するだけではつまらないので、荒尾無き後は九州に唯一残る地方競馬場である佐賀競馬の観戦を組み合わせることにした。ちなみに佐賀競馬場は2008年8月以来、3年半ぶり2度目の訪問である。

2012年2月18日、空路福岡空港に着いた私は、西鉄高速バスで久留米へ、そして会員バス(誰でも予約なしで乗れる)に乗り継いで佐賀競馬場に着いた。ちょうど第5レースが発走する直前。とりあえずこのレースは「ケン」にして、スタートやゴール前の場面でレースの様子を撮ることに専念した。

レース終了後に入場料500円の指定席に移動。シートは簡素なものだったが、空いているのでダラダラと時間を潰すには快適だった。自席でタバコが吸えるので喫煙所に行く必要がなく、馬券も携帯版オッズパークで購入できるので、一度腰を据えてしまうと動く気がなくなる。

それにしても、馬券の収支の方はパッとしなかった。ローカル競馬の常で、実力馬と格下馬の力量差があり過ぎて、ほとんど新聞の印どおりに決着する。「投網方式」と自称している、可能性がありそうな馬は片っ端から買ってしまうというやり方ではガミリ馬券ばかりになってしまう。結局、最終レースまでに1万円弱散財し、佐賀競馬場を引き払った。

往路は西鉄久留米駅前のバスターミナルから会員バスに乗車したが、帰りは手前のJR久留米駅前で下車した。佐賀競馬場のスタンドでちびちびと飲んでいたので、天神あたりの徒歩連絡がかったるく感じたのである。さすがに新幹線で博多に向かうのは自重して、ホームに入ってきた快速列車に飛び乗った。久留米あたりでは車内に差し込む西日が眩しかったのに、博多が近づくにつれて雪景色に変わっていった。九州北部は日本海側なんだという思いを新たにした。

博多駅で2時間ほど待ち合わせ時間があり、酒や肴(といっても乾き物ばかり)をたっぷりと仕入れて、万全の状態で14番ホームに上った。

19時30分過ぎに100系新幹線「こだま766号」が姿を現した。ちらほらと撮りテツさんたちがシャッターを切っていたが、引退1ヶ月前の様子としてはあっけないほど静かだった。喫煙車である6号車に乗車したが、博多発車時点で車内は5〜6名ほどしかいなかった。これ幸いと前の席を回転させ、4席ボックスの状態に仕立てた。現行の100系新幹線は、自由席でもグリーン車用のシートを設置しているが、シートピッチは普通車時代のままであるので、そのまま座ると足元が狭く感じるのだ。舞台が整ったところで「お通夜」の前途を祝して一杯。列車は19時46分に博多駅を発車した。

小倉に停車して、長い新関門トンネルを抜けると新下関駅。ここで「こだま766号」は9分間停車する。車内に潜んでいた撮りテツさんたちが一斉に動き出し、先頭車両あるいは最後尾車両に群がる。新下関では単なる長時間停車の撮影タイムではない「奇跡の5分間」が繰り広げられる。昨年12月1日以降、岡山〜博多間の100系新幹線はわずか2編成だけで細々と運用されている。その2編成が同時に揃うのが20時17分から22分の新下関駅ホームというわけ。当然2本の編成を同時に収めるという需要(欲求?)が起こるわけで、どうしても先頭車(最後尾)にカメラが並ぶことになる。乗りテツ派の私も「ここだけは!!」と思い、それに参戦した。

まるまる5分間シャッターを切りまくり、下りのこだま827号が出発していくと、今までの喧騒がウソのように静まり、やがて上りこだま766号も新下関を発車した。岡山までの道中で最大のイベントが終わってしまったので、あとは腰を据えて飲むだけ。飲めば飲むほど、100系新幹線の思い出が湧き出てくる。前述の就職活動のころ。社会人2〜3年生くらいで行った四国ツアー添乗の往復のひかり号。阪神大震災直後、山陽新幹線の新大阪〜姫路間が不通だった時に、福知山・播但線経由で迂回して姫路から小倉まで乗ったひかり号の食堂車はガラガラだった。また、2000年にはグランドひかりのグリーン車に乗車し、徳山の大カーブ通過の時、食堂車の速度計が170`を指しているのに減速感が凄かったことが印象に残っている。

東海道新幹線から100系が去り、山陽新幹線で短編成化されてからは、グリーン車なみの居住性に惹かれて喫煙自由席に乗りまくった。ちょうどその頃、故原田芳雄さんの細かすぎるモノマネである「こだまの自由席じゃないと(京都に)行かねぇ」にハマっていたので、芳雄さんになりきって100系こだまに乗ったものである。やがて新大阪から100系に乗れなくなり、逆に100系に乗らんがために中国・九州方面に目的地が偏りはじめた。そして今日は、100系新幹線乗車することが目的になっている。時代を追ってみると、「憧れ」→「空気のような存在」→「大好き」→「ストーカー状態」→「お通夜出席」という感じで目まぐるしい。とにかくデビューの年からずーっと見てきて、そして乗ってきた新幹線である。お通夜は盛大にぱーっと行かなくては…。


のんびりムードただようパドック風景


指定席スタンドから見た佐賀競馬場の馬場


スタート直後の直線での先行争い


小回りなのでターフビジョンは要らない?


けっこう接戦になることが多いゴール前


入場料500円の指定席スタンドにて筆者


当初西鉄で移動予定がJR移動で先を急ぐ


西日が眩しい久留米から一転して雪景色に


100系の「お通夜列車」が博多駅に入線


100系を対向ホームから撮るのはこれが最後


2011年12月1日からは、毎日20時17分〜22分の5分間、新下関駅だけで繰り返される100系新幹線どうしの「奇跡の」離合シーン


飲みまくりで22時48分岡山到着


お別れ列車が岡山駅に入線


100系は青い窓枠が特徴


車内LED案内のさきがけだった


翌朝は岡山6時29分発こだま725号で広島へ


2列+2列のグリーン車用シートが並ぶ自由席


バブル期のJR東海CMを彩った直線的な先頭車


こだま725号は新尾道駅で唯一の長時間停車


時間があったので100系をバックに記念撮影


東広島駅停車中に最後の記念撮影

博多から3時間、食っちゃ飲み食っちゃ飲みの果てにヨイヨイの状態で岡山駅に降り立った。既に23時前。7時間あまりのインターミッションを経て、再び同じ車両に乗ることになる。博多方に引き上げていくテールランプを見送りながら、1990年前後のJR東海CMのエンディング部分を連想していた。

翌19日は岡山駅を6時29分に発車する「こだま725号」に乗車。日曜日の早朝にもかかわらず、子供から初老までの様々な撮りテツさんが岡山駅21番ホームに集っていた。空は白み始めたが日の出までは時間があり、寒波襲来の中でお疲れさまである。昨夜と同じ6号車に乗車したが、乗客は私の他には2人ほど。横長の窓に合わせて前の座席を回転させると、斜め前の景色まで眺めることができて実に気分がいい。ほどなく発車の時刻となった。

なにせ、明るい時間帯に走る唯一の100系車両である。トンネルの多い山陽新幹線の数少ない明かり区間では、三脚を立てたカメラマンがこちらを狙っている。新倉敷、福山といった停車駅では対向ホームからこちらにカメラを向けている。その気持ちは痛いほど解る。

新尾道でこの列車唯一の長時間停車(といっても4分間だが)。日の出直後の時間で、駅周辺の山々は紅葉真っ盛りのように赤く染まっている。ホームフェンスがない状態の画像を撮るには、こだま725号に乗車している限りはこれが最初で最後のチャンス。シャッターを切りまくって、最後はセルフタイマーで記念撮影までしてしまった。

三原、東広島と停車している間にもセルフタイマーで車内での自画撮りに挑戦。なまじ朝の列車に乗っているので、あれもできる、これもできるとなってしまい、最後の100系乗車をじっくり味わう雰囲気ではなくなってきたのが悔やまれる。そのうちに広島に到着。「回送」の表示になって岡山方に引き上げていく100系新幹線を見送る。走っている100系の姿を生で見るのはこれで最後だろう。

感傷的な気分も新幹線改札口で終わり。駅前からリムジンバスで広島空港に向かった。広島から浜松に戻るには、わざわざ空路を使わなくても新幹線の方が安くて早い。それでも広島から羽田に飛ぶのは、ボーイング787に乗ってみたかったから。期間限定で国際線ビジネスクラスのシートを設置しており、座るにはプレミアムクラスを予約すればOK。これがなかなかの優れモノだった。


最も倒すとほぼ水平に感じたシート


26年ちょっと付き合った100系と最後のお別れ


目当てのB787に搭乗するため広島空港へ


広島空港で出発を待つB787ドリームライナー


国際線ビジネスとなる予定のプレミアムクラス


機体の大きなロゴは遠目でもB787と分かる

ボーイング767に比べて787は客室幅が80a近く広い。横に2-1-2の配列で、それだけでもかなり余裕がある。加えて767より幅広な分、横方向のゆとりがハンパではない。これなら窓側の席でも隣の人の存在が気にならない。また、前座席の背ずりは固定されているので、前座席のリクライニング時にもゆとりはそのまま。その背ずりには12インチのモニターがはまっていて、全てのビデオチャンネル、音楽チャンネルはオンデマンドだった。シートのリクライニングも電動でこれでもかというくらいに倒れ(体感的にはほぼ水平)、国内線プレミアムクラスとは天地の差だった。つまるところは、最新の東南アジア路線のビジネスクラスの装備が試せるわけである。

これほど快適なシートならいつまでも乗っていたいが、追い風の影響もあってあっという間に羽田に着いてしまった。運行するANAでも、これほど早く着くのは想定外だったらしく、使用予定のボーディングブリッジが埋まっていてバス連絡となってしまった(急な変更だったらしくタラップが接続してからバスが到着するまで延々と待たされた)。災い転じてなんとやらではないが、バスに乗るまでの間に機体を間近でじっくりと見られたので、まぁヨシとしよう…。
<終>

競馬にイプゥー?へもどる

旅と音楽のこころへもどる