序章
古い映画に「2001年宇宙の旅」というものがある。この映画が製作された当時は、2001年は近未来であった。しかし、今年その2001年になってしまった。自分自身が思い描いていた「2001年」の自分とはちょっと違っているけど、まぁそれはよしとしよう。とにかく2001年の最後の旅の行き先として、いつかドライブしてみたいと思っていた九州の「やまなみハイウェイ」を選んだ。久住山を見ながら走るドライブであるので、この旅のタイトルは、かの映画をもじって「2001年くじゅうの旅」と洒落こんでみた・・・

夜発ち
仕事を終えて夜の浜松駅から旅立つのはいつ以来だろう?とにかく久々の夜発ちとなった。2001年10月12日金曜日19時17分、「ひかり167号」は浜松駅を後にした。指定席はほぼ満席。金曜日の下りはいつも混んでいる。携帯ラジオを取り出して、いつものようにオーディオサービスに耳を傾ける。今日はAOR特集とやらでボビー・コールドウェルを流している。車窓をかすめていく街の光を見ながら、しばし極上の時間を過ごした・・・

「2001年くじゅうの旅」は夜の浜松駅から始まった

観覧車のイルミネーションに送られ夜の神戸港を出航
新大阪で新快速に乗り換えて三宮へ。当初の予定は三宮からタクシーで神戸港中突堤へというものだったが、少し考えて、三宮から緩行電車で次の元町に向かった。
元町から2泊分の荷物を背負って歩くことにした。ここのところ競馬の戦績が芳しくなく、余分な出費は少しでも抑えたいといういじましいというかせせこましい考えからであった。神戸市内を歩くのは大震災以来である。あの頃を考えると神戸は見事に復興した。そのひとつのシンボルでもあるポートタワーを見上げながら歩く。駅から早足で15分かかって、やっと中突堤フェリーターミナルに到着した。


早朝松山に寄港した後、別府に向かう。朝日がまぶしい

相部屋
別府ゆきの関西汽船「さんふらわぁ あいぼり」丸は22時25分に神戸港を出航した。しかしこの混みようはなんだろう。ツアーの団体さんから修学旅行の生徒さんまでエントランスの案内所付近に群がっている。その人並みを掻き分けて係りのお姉さんのところに1等船室の鍵を受け取りに行くと一言「今日は満席で相部屋となります」と言われた。このところ別府航路の1等を何回か利用しているが、相部屋になったのは初めてである。幸い年金暮らしの夫婦と一緒でそれほど気を使わずに済んだが、先方はタバコを吸わないためパブリックスペースで吸うはめになってしまった。

ようやく別府に到着。青空に船体の「ひまわり」が映える
ロビーで就寝前の時間を過ごし部屋に戻ると老夫婦は既に寝息をたてていた。相部屋になった時の挨拶でお父さんの方から「少しいびきをかくかもしれませんが・・・」といわれていたので覚悟していたのだが、案の定、寝入りばなに聞かされると気になるものであり、なかなか寝付けなかった。いったんロビーに戻って気休めにタバコを一本吸った後、あらためて部屋に戻るといびきは止まっていた。千載一遇のチャンスとばかりに、私はものの数分で眠りに落ちたようである。
別府航路には大阪から別府に直行するものと、神戸・松山に寄港するものがあるのだが、神戸から乗った以上、必ず松山に寄港する。その松山寄港がくせもので、早朝5時過ぎの松山到着の案内放送で眠りを破られた。寄港便の宿命とはいえ、放送はどうにかならないものか・・・と思う。いったん目覚めてしまったものは後に引けず、仕方なくデッキに出てみると朝日が昇るところであった。秋の空気は清清しく、まぁ「三文の得」といったところか・・・
フェリーは瀬戸内の島々を眺めながら、秋空の下、静かな海を渡り定刻10時に別府観光港に到着した。
久住の旅
やまなみハイウェイをドライブするにあたってレンタカー屋さんにいろいろと注文を出していた。第一希望はMR-Sのマニュアル車であったが、さすがに揃えていなかった。まぁこれは無理ないなと思いつつ、次善の策としてセリカを希望した。ところが先方はATしかないという。近頃のレンタカーはほぼ100%ATだと認識していたが、運転を楽しむクルマまでATとは情けない。
しかし乗り込んでしばらく経ってから、ハンドルに見慣れぬボタンがあるのに気づいた。それは、いままでホーンボタンだとばかり思っていたのだが、ホーンボタンは別のところにあり、おまけにこれには「DOWN」と書いてある。「はは〜ん、これが今はやりのシーケンシャルシフトってやつだな」と思い、そのボタンを押してみたが、さっぱりシフトダウンしない。あれこれやっているうちに湯布院を過ぎてしまい、自分の力では解明不能と悟った。水分峠のドライブインでクルマを停めて取り扱い説明書を読むと、実に簡単な操作であることが分かった。そこにはシフトレバーをDレンジから右に倒せばマニュアルモードになると記されていた。ちなみにシフトアップも手動で、そのボタンは「DOWN」ボタンの裏側にあった。
早めの昼食の後、水分峠のドライブインを出発。ここからはこの旅のタイトルとなったハイライト区間、久住山の裾野を走るわけである。さっそくマニュアルモードにして走ってみたが、これが実に快適で、下り坂でもシフトダウンしていけばブレーキを踏む必要がないのである。無論エンジンの回転数を合わす必要なければ、無謀なシフトダウンでもオーバーレブ(過回転)の心配もない。延々と続くワインディングロード。雄大な風景を見つつ好きな音楽を聴きながら「あぁ、これがしたかったんだ・・・」と思った。
大分県を抜けて熊本県に入り、今度は阿蘇山が見えてきた。やまなみハイウェイからはずれるが、大観峰に寄りたくなり、ミルクロードにクルマを進める。阿蘇一帯は雲がかかっており阿蘇五岳ははっきりしなかったが、外輪山に囲まれた盆地の眺めは見事だった。

九州横断道路(やまなみハイウェイ)の起点でセリカを写す


やまなみハイウェイのシンボル久住山を背景に・・・

通潤橋
阿蘇山の東側を国道265号で抜けて高森町から蘇陽町へとクルマを走らせる。この辺はクルマで来ない限りまず来られないところで、言葉は悪いが「ここにも人の暮らしがあるんだ・・・」と思ってしまう。
高原地帯を抜けて谷筋の道に出る。島原湾に注ぐ緑川の支流大矢川沿いの国道218号である。緑川の支流といえば笹原川が、これから向かう通潤橋に大いに関係があるのだが、その話はおいおいすることにしよう。
さて14時になった。今日はJリーグ屈指の好カード、ジュビロ磐田対鹿島アントラーズの試合がNHKラジオで放送される。しかしカーラジオを懸命に操作するものの山間部であるため天下のNHKですら受信できない。谷が開けたところで微弱な電波をキャッチすると試合開始10分が経過していた。
清和村から矢部町に入ると「通潤橋」の案内看板がしばしば現れた。その案内をたよりにクルマを走らせ14時20分ころ通潤橋に到着した。

右の家族のお父さんに頼んで大観峰で記念に一枚
小学校の社会の授業で「通潤橋」の存在を知ったとき小さな衝撃が走った。というのも、川の上に川を通すという発想に感心したからである。また社会の教科書に載っていた、橋のアーチの頂上から噴水のように水が噴き出している写真にも心を奪われた。慌て者であった当時の加藤少年は、その橋が九州にあることを知り「新婚旅行で行ってみたい」と授業中に発表してしまった。当時の私にとって九州はとてつもなく遠いところで、新婚旅行じゃなければ行けやしないと思っていたのであった・・・。それから20余年の年月が経ちようやく憧れの通潤橋の前に立ったのである。
通潤橋は幕末の嘉永5年(1852)〜安政元年(1854)に築かれた。発案者は布田保之助という人で銅像が立っている。なんでもこの辺一体の白糸台地というところは水の不便なところで田圃の水はもちろん飲み水にも苦労していたところらしい。そこで保之助は6`離れた笹原川から水を引くことを思いついた。しかし川と台地の間には深い谷が横たわっていて当時の技術では、その高さの橋(高さ30b)を架けるのが不可能だったらしい。で、当時の技術で精一杯の高さの20bの橋を架け、その橋に管を通し、サイフォンの原理を応用して水を渡したということである(上の図参照)。これによって白糸台地に100haの水田が開けたとのことである。ちなみにこの橋の通水量は15,000立方b/日、長さ75.6b、幅6.3b、高さ20.2bで昭和35年(1960)に国の重要文化財に指定された。
さて説明が長くなってしまったが、今日は小学校の時に写真で見たように橋から水が噴き出していない。不審に思って駐車場の看板を見てみると去年の9月から来年の3月いっぱいまで放水を休止しているのであった(左上の画像参照)。本来なら右の画像のように、とうとうと放水しているはずだったのに工事では仕方ない。かなりがっくりしながら、橋が見渡せる展望台に登ってみると工事用の青いシートが対岸まで延々と繋がっていた。左の画像はその様子をみてあきらめの表情を見せる筆者である(なんのこっちゃ)。
まぁとにかく小学校以来の念願が果たせたので満足し、いつになるか分からないが通潤橋の放水は結婚してからまた来ようと心に誓った。

放水は見られなかったが念願の通潤橋を背景に筆者

落陽
通潤橋を堪能してクルマに戻ると、磐田対鹿島の一戦は0対0のまま後半に入っていた。九州の山あいで地元静岡で行われているゲームを聞くのは、なにか変な感じがする。これからは大分空港へ戻るだけなので運転そっちのけでゲームに熱中する。解説の植木さんが思わず「ファウルじゃないか」と絶叫したゴンゴールで先制して、藤田のゴールで追加点。このごろ修行を積み重ねて、ラジオを聞いていてもジュビロの試合はテレビを見ているかのように展開が見えてしまう。国道216号を駆け下りて、松橋インターから九州自動車道に乗ったところでロスタイム。そして緑川PAでクルマを停めたところで試合終了。2-0でジュビロが勝ちアントラーズと入れ替わって単独首位に浮上した。その結果に満足しながら、さつま揚げの入ったうどんをすすった。
パーキングを出て、再び高速を北上。九州人は飛ばし屋が多いのか、九州自動車道はいつもの東名よりもペースが速く疲れを覚える。おまけに、いまさっき食べたうどんのため眠くなってきた。睡魔と闘いながら、複雑な鳥栖ジャンクションをぐるりと回り込み大分自動車道に進入した。
鳥栖からは東に進路をとるため、前を向いている限りは太陽を背にした順光となって運転がしやすくなった。次第に山深くなり太陽が山の端に隠れるようになると大分県に入る。日が暮れる前に、もう一枚セリカと記念写真を撮ろうと思い、玖珠SAにクルマを停める。18時少し前と浜松ならとっぷり暮れている時間であるが、そこは九州で、まだ薄明かりが残りデジカメならストロボなしで大丈夫であった。
再び高速に戻ると、暫定開業した対面通行区間が連発。疲れているときにこういう区間があると余計に疲れがたまり苦手である。最後の気力を振り絞って魔の区間を抜け出し、日出ジャンクションから一区間だけ宇佐別府道路を走って速見インターで高速を降りた。松橋からの高速代は4,800円だった。

夕日をあびて九州の要衝・鳥栖ジャンクションに向かう

終章
国道10号の交通量の多さに辟易としながらも、日出から大分空港道路に入ると再び高速気分。有料の終点から大分空港まではすぐだった。
まる一日セリカを運転して、「けっこういいクルマだな」と思った。1人ないし2人で乗るには適度にタイト感があって、なおかつワインディングで心地よい適度に硬いサスペンション。かといってごつごつ来る感じも無くバランスがとれているなと思った。それに感心したのはセミオートマチックで、これならマニュアルでなくても運転が楽しめるなと感じた。これだけ気に入ったクルマを返してしまうのは惜しい気がするが、約束どおりガソリンを満タンにして空港前のレンタカー屋さんに「乗り捨て」た。

ホテルの部屋の窓からはホーバークラフトが見えた

大分道・玖珠SAにてセリカとともに筆者

今夜の宿は、そのレンタカー屋さんから歩いてすぐで、当然大分空港の目の前。翌朝プロペラ機の着陸するような音で目を覚ますと、大分市内から海を渡ってやってきた始発のホーバークラフトが陸上で向きを換えているところであった。
朝食の後、宿を出て空港に向かう。歩いてものの5分だった。アメリカでの同時多発テロ事件後初めて飛行機に乗り、普段よりドキドキしたが、全日空386便は当然のことながら何事も無く10時45分名古屋空港に着陸した。

<おわり>

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