今 日 は 一 日 呑 み テ ツ 三 昧


深夜の浜松駅4番線にサンライズ285系が入線

目覚めると天井まで回りこんだ曲面ガラスの窓に、ヒツジ雲の空が広がっていた。「もう朝か」と時計を見ると、まだ朝5時を回ったところだった。昨夜、浜松駅からサンライズ出雲に乗ったのは、日付が変わった1時12分。それから岡崎を通過するあたりまで水割りを飲んでいた。浜松に停車する寝台列車は、今やサンライズ瀬戸・出雲の1本だけ。70年代終わりのブルートレイン・ブームのころは、きら星のごとく寝台列車が走っていたが、その頃と比べると隔世の感がある。それにしても、列車で一夜を明かし、目覚めた後のひとときは、何とも言えない旅情を感じる。まだ3時間ほどしか眠っていないので、ベッドの上で仰向けになっていると、いつしか眠りに引き込まれた。次に目覚めたのは、岡山を過ぎ伯備線に入ってかなり北上した、新見を過ぎたあたりだった。

6月に会社を辞め、7月に再就職しておよそ2ヶ月。その間は余裕もなく、ライフワークである旅の時間もご無沙汰の状態だった。8月も終わりになって、ようやく身辺が片付き落ち着きを取り戻した。「それじゃ旅に出よう」ということになり、まず思い浮かんだのは寝台列車だった。いわゆるブルートレインは、先週の北斗星ラストランで絶滅し、急行「はまなす」は6月に乗車しているので、選択肢として残っているのは285系のサンライズ瀬戸・出雲のみ。サンライズ瀬戸は終点の高松に到着する時刻が早すぎて、ゆっくり目覚めた後の時間を楽しむ余裕はない。結局サンライズ出雲のB寝台シングルのキップを押さえて旅立った。行き先は、1988年の夏の終わりに旅した山陰西線。昨年の夏は1987年の北海道ツーリングの思い出をたどっているので、今回も同じように27年前の旅を再現することになる。3年前の同じ時期に萩に行き、今回のルートと同様に山陰西線の踏破を目論んでいたが、その時は人身事故によるダイヤの乱れのため、滝部から先はタクシーによる代替輸送になってしまった。今日はそのリベンジも果たすつもりである。


「はままつ」という文字が反射


所有する模型と同番号車両だった

9時58分に終点の出雲市駅に到着。乗車していた13号車の車番を何気に見ると、JR東海所属の285系3000番台(サハネ285-3001)。今年になってから購入したKATOのNゲージと車番も含めて同一編成だった。自分が持っている鉄道模型と同番の車両に乗ったのはおそらく初めてで、ちょっと感動。

さて、出雲市で乗り継ぐ列車は11時36分発のスーパーおき3号。1時間半以上の手待ち時間ができる。その時間を使って老舗の菓子屋の彩雲堂直営店に行く算段である。出雲市駅からお店までは1`半ほどあり歩けない距離ではないが、残暑厳しいおり大汗をかくのは目に見えているので路線バスで往復した。彩雲堂出雲店で有名な「若草」を職場用と自宅用に2つ購入し、店内で試食もさせてもらって店を後にした。駅に戻って土産物コーナーを覗いていると、わざわざバスに乗って買いに行った若草がででーんと陳列されていた。事前に彩雲堂のホームページで取扱店を確認し、デパートがメインでKIOSK等は載っていなかったので、直営店まで出向いたが、まるっきり徒労に終わってしまった。


彩雲堂の高級銘菓「若草」を試食

さて呑みテツに戻る。これまでの経験上サンライズ出雲から乗り継ぐスーパーおきは、指定席よりも自由席の方が空いていたので自由席のキップを持っていたが、これが正解。前後左右すべて空席の後ろ寄りの席を選び、思いっきりリクライニングを倒した。お昼前ともなればアルコールも解禁で、益田到着の13時22分まで、2時間足らずの至福の時を過ごした。山陰西線は漢字で書いてもひらがなで書いても2文字の駅が連続するが、その駅の周辺は複雑な海岸線を持つ風光明媚な土地が多い。大田市に入って、小田を過ぎると海が見えてくる。田儀、波根、久手と日本離れした駅名が車窓を通り過ぎていく。大田市で停車の後も、仁万、馬路と、小学生のころコロタン文庫「鉄道博士全百科」で貪るように読んだ不思議な駅名が続く。小学生のころは、遠く島根県の山陰線沿線はどこか遠い国の話のようだったが、今では何年かに一度通過する日常的な場所になってしまった。そして江津と浜田の間にある波子には、この特急スーパーおきも停車。かつては他の二文字駅と同様、どローカルな無人駅のひとつだったが、しまね海洋館アクアスができた後には堂々の特急停車駅に昇格したのである。などと考えているうちに2時間足らずの旅路はあっという間に過ぎて、13時22分に益田駅に到着した。

益田からの下り列車は1日に8本しかない。特に昼間は9時15分の東萩行きが出た後に4時間以上間隔が空き、今から乗車する13時27分の長門市行きがあって、この後は17時21分の下関行きまで、また4時間ほど列車がない。このへんが長大ローカル線といわれる山陰線の面目躍如なところだが、その4時間ぶりの列車はキハ40の単行。超低視聴率とはいえ、萩を舞台にした大河ドラマを放映しているこの時期に、18キップも使えるとなれば、大垣〜米原間と肩を並べる日本でも有数のボトルネック区間になること必至である。恐れていたとおり平日の昼間でも車内は満員で、ボックス席をあきらめてトイレ横のロングシートに席を確保した。これまた予想通り益田から乗ったお客は、ほとんど東萩まで下車することもなく、1時間余り満員列車に揺られた。東萩では乗客が入れ替わるも、やはり満員状態は続き、結局終点の長門市まで苦行の旅。当然アルコールを飲む気になれず、すっかり酔いが醒めてしまった。

長門市では美祢方面と小串方面の二方向の列車が接続しており、跨線橋を渡った先に停車していた小串行きはガラガラの状態だった。予定は長門市で一本列車を落として街歩きでもしようと思っていたが、せっかくガラガラの列車がいるのに、これに乗らんわけにはいかんだろうと思い、キハ47の2両編成に乗り込んだ。ボックス席1つを独占し、さっきの列車では叶わなかった汽車旅を満喫できる。1988年の旅で乗ったDD51牽引の50系客車も、今乗っているキハ47気動車も、製造されたのは昭和50年代で、デッキの有り無し等に違いがあるものの、車内のアコモデーションは良く似ている。これなら27年前の思い出がたどれそうである。


目覚めると頭上にはヒツジ雲が広がっていた


上石見で運転停車し「やくも6号」に道を譲る


朝10時ころ出雲市駅に到着直後の285系


正面は旧大社駅に似ている出雲市駅北口


彩雲堂出雲店までバス移動して土産購入


山陰西線は日本海に沿って走る。田儀駅


1988年8月の旅が思い出される特牛駅


ちょっと露出オーバーだがそれが鈍行っぽい


キハ47に揺られて小串駅に到着


夕暮れの響灘。極上のトワイライトセクション


長大ローカル線である山陰線の西の果て

長門古市周辺の田園地帯は、早くも首を垂れる稲穂が揺れていた。この景色は50系の車窓で見覚えがある。そして列車は海岸線を走り阿川へ。先日亡くなった阿川弘之さんの系図をたどっていくとここに行きつくと聞いたことがある。そして海岸線を離れて小さな峠越えをすると特牛。小学生のころに難読駅として出会った駅名で、今では山陰西線といえば特牛を思い浮かべる象徴的な駅である。「とっこい」ならばまだ分かるが、「こっとい」じゃ読めんわな。由来は諸説あるが、地元の方言で牝牛をコトイと呼ぶというものが一番しっくりくる。そして因縁の滝部へ。3年前はこの駅で「みすゞ潮彩」に乗り継げたが、今は1往復となってしまいサンライズ出雲に乗っていては乗り継げないダイヤになってしまった。そして夕暮れの響灘。27年前は「アイム・ノット・イン・ラヴ」や「21世紀の男」などを聴きながらここを走った。もちろん、今回もこの区間でそれらの曲を聴いて、極上のトワイライトセクションを過ごしたことは言うまでもない。かなり酔っぱらって小串駅で列車を降りた。

小串からは下関近郊区間の様相が増して、ちょうど夕方のラッシュ時間にも重なって幡生までは難行苦行を強いられた。幡生から一駅だけ山陽線電車に乗車して新下関へ。新山口でこだま号からのぞみ号に乗り継げば、予定より1時間以上も早く宿にたどりつけたが、新下関に入ってきたこだま号は500系。「今日は一日呑みテツ三昧」というテーマであるからには、せっかくの500系で終点まで呑みテツしなければなるまい。幸いこのこだま号は岡山止まり。万が一、酔っぱらって眠りこけていても、ホテルを予約している岡山で車掌さんが起こしてくれるからね…

呑みテツ最後の列車は500系こだまで締める


先頭車にある疑似運転台でちょっと遊ぶ

<終>

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