石 州 瓦 と 青 い 海
夜霧ならぬレンズ結露で幻想的に

「恋のナイト・フィーバー」ビージーズ、「プレイ・ザ・ゲーム」クイーン、「アイム・ノット・イン・ラヴ」10cc、「ユー・アンド・アイ・パートU」フリートウッド・マック、「21世紀の男」ELO、そして「ヒア・カムズ・ザ・サン」ビートルズ。1988年の夏の終わり、夕暮れの山陰線西部で聴いた曲たちである。そのころの益田以西の普通列車は、50系客車が主役を張っていた。牽引する機関車は朱色のDD51。レッド・トレインと呼ばれていた50系客車とは、コーディネート的にも名コンビだった。電源を持たない50系客車ゆえに当然非冷房。でも開け放たれた窓からは海風、あるいは田園の風が入ってきて、不思議と暑かった記憶がない…。

24年の時が過ぎ、客車鈍行どころか益田〜下関間を走る優等列車すらなくなり、風光明媚なこの路線は1〜2両のディーゼルカーが行き交うローカル線となってしまった。それでも2007年から最西端の長門市〜新下関間に観光列車「みすゞ潮彩」号が運転されるようになったこと。また、キハ40やキハ47といった国鉄時代から当地で活躍していた車両も健在であるので、夕暮れの時間帯を選べば当時の雰囲気を再現できるのではと思い、旅を計画した。


サンライズ出雲A寝台シングルDXの室内


シングルDXの長所は室内で歯磨きくらいか?

山陰へは浜松を通る唯一の定期夜行列車「サンライズ出雲」号で入ることにした。この列車の浜松発車時刻は午前1時過ぎ。昨秋にはこの時間まで待ってサンライズ出雲に乗車したこともあったが、仕事を終えて一度帰宅し、終電で浜松駅に出て、駅前のロイホで時間を潰すという、気が遠くなりそうなアプローチが必要で、いかんせん待ち疲れた。そういうわけで、今回は熱海までこの列車を迎えに行くことにした。

浜松駅19時29分発車のホームライナーで静岡へ。その後こだまに乗り継ぐが、早く着きすぎてしまう。そのため静岡と熱海の両駅で、それぞれ1時間ほど新幹線待合室に居た。エアコンと無線LANが完備されているので、時間を潰すのには好都合である。で、23時23分にようやく熱海からサンライズに乗車。待合室でカメラも冷やしてしまい、結露のため使い物にならなくなってしまったのは想定外だったが…。

浜松駅を出発した時から酒浸りなのはいつもの通り。熱海でサンライズ出雲のA個室「シングルデラックス」に落ち着く頃にはすっかり酔っ払っていた。なんとか浜松を出るまでは起きていようと思ったが、天竜川を渡ったのを最後にぷっつりと記憶が途切れた。明るい朝の日差しに目が覚め、しばらくすると岡山到着の車内アナウンスがあった。メガネをしたまま5時間も眠りこけていた。うーむ、酒の力は恐ろしい…。

起きてしまえば、寝台特急も昼行列車になってしまう。B寝台の個室よりは広いものの、普通のビジネスホテルより狭いうえにトイレも付いていない。おまけに窓際にベッドがあるので、車窓を見るにはベッドサイドの壁に寄りかからねばならず、最新の快速電車の方がよっぽど居住性が良い。つまるところ寝台列車は中途半端なのだ。A寝台のメリットは洗面台が部屋にあるので、歯磨きが室内でできることくらい…。少なくとも、次回サンライズを利用する時はB寝台個室で十分だなと思った次第…。

居住性の良くない個室昼行列車として4時間近く過ごし、朝10時前に終点出雲市に到着した。次の列車は11時34分のスーパーおき3号。サンライズ出雲ではインターネットが使えなかったので、空き時間は駅前の喫茶店でメール&ネットチェック。こういう細かい点でも寝台列車<ビジネスホテルという数式が成り立ってしまう。寝台特急が絶滅の危機に瀕しているが、少なくともビジネス利用が多いサンライズ出雲・瀬戸では、時代に合ったサービスを提供しないと利用客にそっぽを向かれるのではと思う。

さて、お昼前の出雲市駅ホーム。スーパーおき3号は2両増結の4両編成で入線してきた。指定券を持っていたものの、こんなケースでは得てして自由席の方が余裕があるもの。果たして、自由席車両で海側の窓が広い席を確保できた。山陰線の出雲市以西は日本海に沿って線路が敷かれているので、車窓を楽しむためには海側を確保しないと始まらない。石州瓦の産地らしく、赤っぽい色の屋根が目立つ。これと透き通った青い海とのコントラストは、クロアチアのドブロブニクを思わせるような風景である(行ったことはないけど…)。益田までの約2時間、たっぷり車窓を堪能できて満足だった。


もはや朝とは言えない10時前に終着に到着


赤い石州瓦と青い海はドブロブニクを思わせる


かえって自由席の方が空いていたスーパーおき


18きっぱーで大混雑の単行気動車鈍行


萩のみどころとしてハズせない松陰神社


幕末の松陰を祀っているため本殿はまだ新しい


明治維新胎動の地…もっともダ


2年前に建った高杉晋作立志像

益田駅で乗り継いだ鈍行は、キハ40の単行。ちらほらボックスに空席もあるが、立ち客が出るほどの盛況。それも明らかに旅行客と見られる大きな荷物を持った乗客が大半だった。益田以西は優等列車の空白地帯とはいえ、夏休みということで「18きっぱー」たちもかなり混ざっている模様。こういうときは眠るに限る。ボックス席の先客の荷物をどけてもらい、そこに着席すると、東萩までの1時間ちょっとは夢の中。もっとも、これでは「1988年の思い出をたどる」みたいな目的などあったものではないが…。

東萩には14時38分に到着。次の下り列車までの待ち時間を利用して萩を観光するという算段である。そのため当地滞在は2時間もない。萩に来たからには吉田松陰を押さえねばと思い、駅の南東方向にある松陰神社に向かって歩き出した。それにしても西日本の夏の午後は猛烈な暑さである。地図上では近く見える松陰神社までの道のりは1`以上あり、たっぷり15分は歩かされた。おかげで神社に着く頃には汗びっしょり。まぁそれでも、本殿に参拝し、松下村塾で記念撮影、そして明治維新胎動の地の碑を見上げるという三点セットをこなして神社入口のバス停に向かった。

萩市内のスポットを循環するバスはどこまで乗っても100円均一。30分ヘッドの運行なので使い勝手もまずまず。「まぁーるバス」と呼ばれているこのバスは2つのルートがあり、主に町の東側を巡るバスは「松陰先生」と名付けられ、西回りのバスは「晋作くん」となっている。とりあえず松陰先生の方には行ったので、なんとか晋作くんの方もこなしたい。バス車内にあった時刻表と路線図をこねくり回して妙案を見つけた。私は「萩美術館前」で降車ボタンを押した。

萩美術館から北に向かって少し歩くと、有名な城下町の南端にたどり着く。白壁をバックに人力車なんかも停まっていて気分が盛り上がる。まずは晋作広場へ。ここには平成22年10月に建てられた「高杉晋作立志像」がある。まだ真新しく、夏の日差しを浴びて光り輝いていた。そしてすぐ近くの高杉晋作誕生地を訪問。ごく平凡な民家を眺めるのに入場料100円支払うのもシャクだったが、一応晋作ゆかりの施設を訪れた証拠になるからヨシとした。座敷に晋作にまつわる様々なモノが展示されていたが、その座敷に上がることは許されず外から眺めるだけだった。

さて、晋作の生家が建つのは「菊屋横丁」という通りで、ここは日本の道100選のひとつでもある。菊屋家住宅のなまこ壁が見事で、名にし負う萩城下町を代表するスポットだった。菊屋家の角から西に少し歩くと萩博物館がある。時間の関係で博物館には入らなかったが、博物館前の広場に建つ田中義一像は、萩市内に建つ他のどの銅像よりも立派なものだった。世界中どこの町に行っても目に付く銅像は政治家の者が多く、ここ萩とて例外ではなかった…。

これで萩観光は終了。萩博物館前バス停で「まぁーるバス」が来るのを待った。実は城下町界隈で東回りの「松陰先生」から西回りの「晋作くん」に乗り継げ、その「晋作くん」は萩の西の玄関である山陰線玉江駅前に立ち寄る。さきほど乗車したバスの中でそれらのことに気付き、カツカツで玉江駅から山陰線下り列車に乗車できることが分かった。でもバスの宿命は遅れるということ。博物館前バス停に時間通りにバスが来ればなんてことはなかったが、5分ほど遅れてきたので乗り継げるかどうかヒヤヒヤした次第。まぁ2分の接続で間に合ったから良かったけど…。

長門市行きの鈍行列車はロングシートのキハ120。しかも強烈な西日のためか、左右の窓すべてにカーテンが引かれていた。空いていれば構わずカーテンを開けるところだが、そこそこ車内は賑わっていてそんな蛮行は許されない雰囲気。「それじゃ、おとなしく寝てしまいましょ」ということで、爆睡を決め込んだ。結局、益田→長門市の区間はほとんど眠っていたことになる。


萩の代表的な名所・松下村塾は小ぶりな建物


他の人が記念撮影をする合間にセルフタイマー


高杉晋作誕生地。入場料が100円かかる


幕末の志士の中でも高杉晋作人気は根強い


日本の道100選・なまこ壁が見事な菊屋横丁


萩市内の循環バスは「松陰先生」と「晋作くん」


24年前は客車鈍行で観た夕暮れの海


滝部駅到着。みすゞ潮彩に乗り継ぐつもりが…


急遽派遣の委託社員から説明を受ける乗客


列車代行タクシーが滝部駅前で待つ


予定通りさくら570号で下関地区を脱出

長門市で乗り継いだ鈍行列車は、国鉄時代から慣れ親しんだキハ47の2両編成。ゆったりとしたボックスシートが並び、それこそ24年前の50系客車を髣髴とさせる車両である。ボックスごとに1人座っているかどうかという乗り具合で、私もボックス1個を占領し、前の座席に足を投げ出した。スーパーおきを降りてからアルコール抜きであったが、晴れてここから解禁。徐々に傾きを増す西日を浴びながら、山陰の海岸線を行くというシチュエーションは、これぞ「鈍行の旅」という感じだった。しかしながら冒頭に記した極上の6曲は、この後に乗車する「みすゞ潮彩」のために敢えてとっておくことにした。

滝部で山陰線最後の乗り換え。いったん改札を出て、このあとの旅を極上のものにするべく、近くのスーパーマーケットで惣菜を購入。駅に戻ってくると出発まで残り10分。私はタバコに火をつけた。タバコを吸い終える頃には、お待ちかねの「みすゞ潮彩」号が入線してくるだろう…。

しかし出発時間を過ぎても列車は来なかった。それもそのはず、これから通る予定の黒井村〜梅ヶ峠間で、2時間ほど前に人身事故があり、まだ復旧していないからである。18時30分ころJR西日本の委託社員である初老の男性が駆けつけ、列車代行のタクシーの乗り合わせを決めていった。大型タクシーなので運転手以外に5名乗車可能ということで、新下関に向かう4名に梶栗郷台地へ行くという1名を加えて滝部駅を出発。幸い私は助手席に乗せてもらい比較的ゆったり運んでもらったが、5ナンバーコンフォートの後部座席に押し込められた残りの4名は、さぞや旅気分が台無しだっただろう。私だって、この旅のキモを失ってかなりガッカリしていたのだから、いわんや…をや…

結局、1時間ほどで新下関駅に到着。既にとっぷりと日が暮れていた。新下関からは所定のさくら570号に乗れたのは不幸中の幸いだった。私は、N700系の車内でビージーズの「ナイト・フィーバー」を聞き始めた。旅はまだ終わっていない…。
<終>

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