日本縦断弾丸ツアー

(付録;Trance Nippon Express)

20世紀も残り2ヶ月足らず。これまでさまざまな所を旅してきた私にとって、 これは是非とも次世紀に残しておかなければならないと感じる「思い出深い旅」のひとつに、 1992年暮れの「Trans Nippon Express」がある。「Express」というタイトルとはうらはらに、 青春18キップを使い、日本最南端の駅・指宿枕崎線「西大山」から最北端の宗谷本線「稚内」 まで普通列車だけを乗り継いだ5日間の旅であった。しかし最近記憶力が低下した筆者にとって、 ろくに記録も残っていない旅の記憶の断片をつないでホームページにまとめるということは困難を 極める作業である。そこで今回、最南端から最北端まで最短で乗り継ぐ旅を実施し、両者の旅を 比較しようと試みた。題して「日本縦断弾丸ツアー」。いったいどんな旅になることやら、お楽しみに・・・。
(注)「Trans Nippon Express」当時の回想については本文中で緑色で記した。

枕崎
(今回/西大山より -54分)
 
2000年10月28日土曜日の朝5時。私は日本の鉄道の南の果て、鹿児島県の枕崎駅にいた。 前日の夜22時に枕崎に入り、小さな宿に泊ったのだが、その宿には目覚し時計が無かった。
とにかく今回の旅は枕崎駅を5:11発の始発列車に乗らないことには、翌日午後の稚内到着 までの計画がパーになってしまうので、しっかり朝目覚めることができるかどうかが肝要である。 結局目覚しに頼らずに朝4時過ぎに目を覚まし、この旅最初にして最大の難関をクリアした。

↑まさに「まっくらざき」。出発前の筆者

かつては鹿児島交通線が乗り入れていた枕崎駅は無人駅となったが、駅舎は当時のままで 無人駅に似つかわしくない立派なものである。しかし駅舎の蛍光燈は全て切れており、灯りとい えば3台ほど並んだ自動販売機のものだけであった。まさに「まっくらざき」だなとオヤジギャグ にもならないようなフレーズに苦笑しつつホームに上がった。既に2両編成のディーゼルカー がホームに据え付けられており、カラコロとアイドリング音を響かせていた。
定刻5:11に指宿行き5320Dは枕崎駅を発車した。乗客は私ひとりだけ・・・。まっくらで車窓を望 むべくもなく、私は睡眠不足を解消するためボックス席で体をクの字に曲げてスタート早々に居眠り を始めた。

↑最果てから最果てへ。枕崎を未明に出発

西大山
(今回/西大山より 0分)

(前回/西大山より 0分)
西大山の3駅手前の開聞で居眠りから覚めた。まだ6時前というのに、いつのまにか乗客が増えた。 それも大半は中学生。鹿児島へ部活の練習試合に出掛けるとのことである。外は小雨が降っているものの、 10月終わりの夜明け前にしては暖かかった。雨空のためまだまだ夜の続きで、車窓ポイントである円錐形の 開聞岳はうっすらとしか見えていない。

↑日本最南端の駅「西大山」もまだ闇の中

西大山発車は6:05。まだ闇の中であった。
1992年の12月11日15:20、この駅より「Trans Nippon Express」は始まった。初冬とはいえ南九州の日差しは十分強く、当時の写真にはYシャツを腕まくりした自分が写っている。しかし実際は風が強くてYシャツで写真に収まるにはけっこうやせ我慢した記憶がある。その後の行程は、今回の旅と同様に指宿で乗り換えとなる。そして西鹿児島に到着するころには日が暮れていたように思う。


↑指宿からはキハ200で都会的な雰囲気

指宿で今まで乗っていたキハ58からキハ200に乗り換えた。4両編成の車内は休日の早朝というのに満席であったが、転換クロスシートに座れば満席の状態を意識することなく快適に旅を続けることができる。ただ、あまりにも快適なため車窓に広がる錦港湾と桜島を眺めることなく、またも惰眠をむさぼってしまったが・・・。西鹿児島到着は7:36。次の列車の待ち合わせ時間を利用してようやく朝食にありついた。
西鹿児島からは優等列車ばかりを乗り継いで稚内に向かう。まずはJR九州の看板列車、特急つばめ6号に乗車する。休日の博多行きで、朝8:25発といい時間であるため自由席に乗車する乗客の列は長く伸びていた。その列を尻目に私は喫煙車指定席に乗り込んだ。

↑JR九州の看板787系「つばめ6号」に乗車

787系の列車に乗ったらぜひ体験したいことがひとつある。それはビュッフェを利用すること。専用のスペースで流れる車窓を眺めながらコーヒーを飲んだり、軽食をとったりできるのは日本国内では数少なくなってしまった。東シナ海を望むことができる阿久根あたりでビュッフェに向かった。満席の自由席から流れてきた乗客でビュッフェも盛況であった。さっそくパエリアとフカヒレスープを注文し、旅の句読点を楽しんだ。

↑流れゆく車窓を楽しむビュッフェでのひととき

ビュッフェから戻ると、つばめでのお楽しみが終わってしまったような虚脱感が襲ってきた。八代を過ぎると車窓からは海が見られなくなり、分厚い雲の下、変わり映えのしない車窓を眺めつつ博多を目指した。博多到着は12:15。西鹿児島から3時間50分の旅であった。

博多
(今回/西大山より 6時間30分)

(前回/西大山より 13時間40分)
博多からは日本最速の列車500系新幹線に乗車して東上する。12:35発のぞみ18号に乗り込んだ。出発して、ものの10分も経たないうちに車内のインフォメーションボードに「ただいまの速度300Km/h」と表示される。線路横に立っている電柱は次々に後方へ飛んでいき迫力満点である。列車での300Km/hは初体験であるため最初のうちは興奮していた。しかし、あまりの速さに自分の視覚がついていけず頭が痛くなってきた。もともと500系は側面が丸く絞り込んであるために窓側の座席はスペースが狭くちょっと苦痛になってきた。

↑東京までの4時間49分は修行(?)の旅

1992年の旅も博多ではかなり厳しいものがあった。深夜0:36の列車で博多に到着し、駅前のカプセルホテルで宿泊した後、早朝5:00発の列車で東に向かった。おかげで睡眠時間はかなり削られて、翌日の山陽本線は居眠りしては乗り継ぎの連続で「俺は何をやってんだろう」と自己嫌悪に陥っていたように思う。
のぞみ18号は広島、岡山でたくさんの乗客を受け入れ、私の座席の横にも20代前半のお兄さんが乗ってきた。ここから東京までの3時間余り、延々と「肘掛け争奪戦」が繰り広げられていくのである。

米原
(今回/西大山より 9時間20分)

(前回/西大山より 26時間24分)
新大阪からは満席で東京に向かう。喫煙席ということで煙はもうもう。自分で吐き出す煙は気にならないものの、他人が吐き出す煙はすごい気になる自分勝手な性格なので、これにはウンザリした。おまけに新大阪〜東京間といえば、これまで数限りなく往復した東海道。いきおい眠くなってしまい、1992年の旅とのジャンクションである米原は夢の中であった。
「Trans Nippon Express」は米原より主に日本海側を進む。3日めは金沢に宿泊して睡眠不足を解消するべく爆睡し、翌朝はまたも5時台の早立ちとなった。3日めのトワイライトセクションは山形であった。日曜日の夕方のユーミンのFMを旅の供にして50系客車に揺られながら酒を痛飲。21時からの角松敏生DJの番組を聞く頃にはかなりいい感じの状態になっていた。
秋田に宿泊し、4日め朝もまた50系客車の旅。車窓は雪景色となり、旅愁をそそった。結局山形から青森まで全て客車列車での旅となり、2000年の今から思えば垂涎ものである。

さて、のぞみ18号はあいかわらず東海道を270Km/hで駆け抜ける。途中ふりだしの浜松を通過し「せっかく戻ってきたのに、なんでまた遠くに行かにゃならんの」と随分テンションが下がっていた。そんな時オーディオサービスから流れるアバの音楽にかなり心を癒された。中学時代にラジオからよく流れていた懐かしいフレーズ。中学の頃の幼い恋愛体験なんかを思い出させてくれた。


↑東京からは「やまびこ・こまち」で北に向かう

東京で4時間49分の難行苦行から開放され、18:08発のやまびこ・こまち25号からは酒も解禁。持ち込んだ焼酎のミニボトルと缶の烏龍茶を座席で混ぜてウーロンハイを作り、さっそく飲み始める。これまでの疲れのためかすぐに酔っ払い状態になり、満席でも少しも苦にならなかった。東京から1時間40分後の仙台ではかなりの乗客が降りて車内はガラガラになった。この旅一番の快適な状況となり、酔いが回った頭に少し過去の恋愛などが去来し、少し未来の自分の状況に想いを馳せていた。ヘッドホンステレオからはジョージ・ベンソンの「愛のためいき」が流れていた。32ビートを刻むハイハットが心地よかった。


↑盛岡からはリニューアルされた「はつかり」

盛岡では10分の待ち合わせで20:44発はつかり25号に乗り継ぐ。国鉄型の485系特急列車を大幅にリニューアルし、外観は新車そのものであるが、シートピッチは従来のままで、いままで現在の水準の列車ばかり乗り継いできた自分にとってはえらく狭く感じた。昔はこのシートピッチでもみんな有難がって乗っていたんだと思うと隔世の感がある。しかしJR東日本の名誉のために言っておくと、シートは取り替えられており座面と背摺りが別々に稼動するというスグレものであった。
さて、旅をしていても世間の状況は気になるもので、日本シリーズはどうなったかとラジオのスイッチを入れてみた。ちょうど9回表でダイエーの最後のバッターが打ち取られ、巨人の優勝が決まったところであった。心情的に王監督を応援してきた元巨人ファンの私にとっては複雑な一瞬であった。そんな中、はつかりは夜の東北本線をひた走り青森駅の長いホームに滑り込んだ。

青森
(今回/西大山より 17時間03分)

(前回/西大山より 67時間36分)
青森では今回の旅で唯一急行列車のお世話になる。23:08発札幌行き「はまなす」の寝台に潜り込んだ。寝台車は、この季節ガンガンに暖房を炊いており、なかなか暑くて寝付かれない。とうとう青函トンネルまで眠れなかったが、トンネル内は保線状況がよく揺れもおさまりウトウトし始めた。

↑急行はまなすの寝台で一夜を過ごす

目覚めると外は明るくなっており北海道の雄大な景色に目を奪われた。ほどなく列車は南千歳に停車し、先ほど見た車窓は苫小牧の北の原野だということが解った。夜行列車の醍醐味は、目覚めてから列車がどこを走っているのかを正確に確認するまでの何分かにあるというのが持論である。昨日とは打って変わって天気は快晴で、僅かな時間であるが今日は北海道を満喫できるという思いを強くした。
前回の旅では、道南は夕方から夜で沿線は雪また雪であった。北海道の冬至前の日没時間は驚くほど早く、16時ころには日が暮れてしまうのだが、その直前の森駅の跨線橋から見た駒ヶ岳の雄大な姿が目に焼き付いている。

↑北海道ではDD51がはまなすの先頭に立つ

札幌
(今回/西大山より 26時間25分)

(前回/西大山より 86時間50分)
札幌での待ち合わせ時間は約2時間。この時間を利用して西鹿児島以来、まる1日ぶりに改札の外に出た。鹿児島の昨日の気温は22度。今朝の札幌の気温は6度。16度の気温差はさすがに骨身にしみたが、ヤッケをはおるまでもなく晩秋の朝の札幌を楽しんだ。朝食をどこかで摂るつもりで歩き回ったが、駅前の外食産業はどこも準備中で目的を果たせなかった。しかし旧道庁の赤レンガを遠目に見たりして、朝の散歩は十分満足できるものであった。


↑最後の列車、稚内行き「スーパー宗谷1号」

札幌駅に戻り、構内のベーカリーで軽い朝食を摂る。8時前にホームに上がり、「内地」では観られない列車などをデジカメで撮りまくってるうちに特急「スーパー宗谷1号」が入線してきた。これで最北端の地、稚内まで一直線である。札幌駅を8:30に発車。のびやかな車窓にナナカマドの紅葉が美しく心を和ませてくれる。やっぱり北海道はいい!!と心底感じた瞬間である。
1992年の旅は札幌から滝川までは函館本線を北上したが、そこからは富良野まわりで旭川を目指した。というのも名寄以北の鈍行列車が少なく、まっすぐ稚内に向かっても富良野に寄り道をしても同じ列車になってしまうからである。沿線の印象としては、特に名寄以北の「宗谷北線」でぴったり寄り添う天塩川の凍りついた川面が鮮明に記憶に焼き付いている。

↑宗谷北線の車窓に寄り添う天塩川

時は流れても川の流れは変わらない。今回も名寄から北の車窓には天塩川の雄大な流れが寄り添っている。北緯45度と緯度が上がり、反比例して太陽の高度が下がり、日差しが優しく車内に差し込む。北の果てを旅しているんだという喜びが沸沸としてくるようである。

稚内
(今回/西大山より 31時間23分)

(前回/西大山より 97時間20分)
「日本縦断弾丸ツアー」もクライマックスを迎えた。ヘッドホンステレオからは「トワイライトセクション」の上がり3曲が流れる。列車は抜海の丘に向けて徐々に高度を上げていく。

↑抜海の丘を越え、海の向こうに利尻富士

「Trans Nippon Express」でも「トワイライトセクション」の上がり3曲を聴きながら抜海の丘を越えた。既に夕闇濃い時間で「トワイライトセクション」と呼ぶに相応しい時間であった。クルセイダーズの「明日への道標」を歌うジョー・コッカーのしわがれ声に、自分の恋愛の明日への光明を見出し、モーリス・ホワイトの「アイ・ニード・ユー」を心底聴き込んだ。そして、ラストはデレク&ドミノスの「愛しのレイラ」。後半のピアノのコードバッキングを聴きながら稚内の街の灯りの中に下っていく。エリック・クラプトンの泣きのギターに涙した瞬間であった。
時刻こそ違えど、今回の旅も全く同じシチュエーションであった。エリック・クラプトンのシャウトとともに抜海の丘を登り、転調の瞬間に海の向こうに利尻富士を望んだ。そしてゆっくりとギター・ソロにあわせて稚内に降りてゆく。「愛しのレイラ」を聴く度に、この車窓を思い浮かべていた自分にとって8年ぶりのデジャ・ヴであった。

↑日本縦断弾丸ツアーも稚内で終焉を迎えた

列車は定刻の13:28に少々遅れて稚内に到着。さすがに延べ5日間かけてここに到達した「Trans Nippon Express」とは較べるべくもないが、十分に達成感はあった。稚内駅の改札を出て8年前と同じ場所で記念撮影をした。気温は7度ながら、頬に当たる風は清々しかった。

↑最北端の地に立ち、今回もここで記念撮影

<おわり>

























Trance Nippon Express

Trance Nippon Expressの出発地、日本最南端の駅「西大山」にて

開聞岳の雄大な山容を背に;西大山15:20→15:37指宿(964D)

指宿15:45→16:58西鹿児島
(966D);指宿駅にて

西鹿児島17:28→20:43日奈久
(2140M);日奈久駅にて

日奈久21:13→0:36博多(986M)
1日めの最終列車;日奈久にて

博多5:00→6:20小倉(120M)から
小倉6:22→6:38下関(832D)へ
小倉駅にて乗り換え

下関6:39→10:33広島
(636M);徳山駅にて

広島10:40→12:14福山
(快速1342M);広島駅にて

福山12:15→13:01岡山(快速サンライナー3734M)は大好きな117系

岡山13:21→14:46姫路
(1416M);岡山駅にて

姫路14:57→17:25米原
(新快速3348M);姫路駅にて

米原17:44→17:53長浜(780T)
隣には浜松行き117系が・・・

長浜18:01→20:07福井(355M)
福井駅にて

2日めの最終列車は急行型475系;福井20:33→22:07金沢(359M)

寝台特急型583系改造の乗りドク列車419系で3日めはスタート
金沢5:21→8:40直江津(221M);金沢駅にて

直江津9:02→9:32柏崎
(快速3335M);直江津駅にて

柏崎10:01→11:41新潟
(越後線快速139M);柏崎駅にて

新潟12:05→12:18新津
(快速2234D):新潟駅にて

新津12:22→12:50新発田
(127D):新津駅にて

新発田12:59→13:25坂町
(933M);新発田駅にて

坂町13:31→15:37米沢
(米坂線128D);坂町駅にて

米沢16:06→16:50山形(541M)
米沢駅にて新幹線に出会う

山形17:09→18:46新庄(1431レ)
山形駅から50系の旅は始まる

新庄19:24→22:09秋田(2431レ)
は1431レの電機を交換しただけ

秋田5:20→9:04弘前(1629レ)
50系客車で4日めスタート

寝台特急あけぼの号と並ぶ50系;弘前9:51→10:44青森(629レ)

青森10:56→13:34函館
(快速海峡5号3125レ);青森にて

函館13:52→17:18長万部
(2843D);ついに北海道の地へ

長万部17:29→19:12東室蘭
(481D)は雪の中へ・・・

東室蘭19:26→20:26苫小牧
(451M)は1日ぶりの電車

苫小牧20:29→21:37札幌
(2847M)は721系電車

721系電車にて筆者

札幌6:10→7:57滝川(923D)は
札幌始発から雪まみれ

滝川8:05→9:04富良野
(快速狩勝3425D):滝川にて

富良野に寄り道後は・・・
富良野9:50→10:48旭川(728D)

旭川11:02→12:31名寄
(快速なよろ3号9323D)

Trans Nippon Express最終列車;名寄12:34→16:40稚内(4331D)

青地に白で「稚内−名寄」。国鉄急行色のキハ53も懐かしい

延べ5日間をかけて終焉の地、稚内へ

日本最北端の駅、稚内にて筆者

翌朝、今はなき「急行宗谷」で稚内を後にした・・・

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