第 1 回 を 再 現 ?

Spring Tour 30周年記念の旅


30年前の旅を青春18きっぷで再現

「おんもに出たいと待っていたんです」 これは1987年春あたりの青春18きっぷのキャッチコピーだった。その名文句に誘われて、1987年春季に私は初めて青春18きっぷを1冊買った。そして春休み末期の4月7日(火)に、残り2枚となったきっぷを握りしめて、浜松駅から大垣夜行と呼ばれる下り列車に乗った。浜松発車は早暁4時16分。西三河あたりで空が徐々に白みはじめ、名古屋を過ぎると165系のボックスシートはガラガラになった。6時58分に大垣に到着し、俗に言う「大垣走り」をすることなく、次の電車に乗り換えた。と、ここまでが現在まで綿々と続いている「Spring Tour」の第1回スタート部分である。

それから30年の月日が流れ、当時20歳だった私も50歳になってしまった。列車の旅では「金持ち喧嘩せず」をモットーに、発売と同時に特急の指定席を押さえ、繁忙期にはグリーン車の予約も厭わない、わがままなカラダになってしまった。当然、近年は青春18きっぷを利用しないし、18きっぱーが活躍する期間は、短区間でもなるべく普通列車に乗らないようにしていた。一方で、第1回のSpring Tourを再現するため、ここ何年かはクルマで行ったり、特急を利用したりで、桜の咲くころに福知山〜豊岡〜鳥取というルートに足を運んだが、イマイチ納得できる仕上がりにならなかった。それなら出発日を当時と同じ日に揃えて、全行程を青春18きっぷ利用すれば、当時の旅の気分を再現できるかもしれないと思い、第1回のSpring Tourからちょうど30年目に当たる2017年4月7日に出発することにしたのである。

それでは30年前のSpring Tour、別名「西のサイドラインツアー」の行程をざっとおさらいしておこう。前述のとおり、浜松を朝の4時すぎに出発し、165系急行型電車で大垣へ。大垣からは、たぶん113系電車で京都に向かった。当時の旅では必ず乗った車両の形式をメモっていたが、30年の間にそのメモが散逸してしまい、今となっては経験に基づくカンを頼りに綴らざるをえないのが辛いところ。で、京都からはキハ58あたりで福知山へ。福知山からは電化区間となり、豊岡まで113系に乗ったと思われる。豊岡〜鳥取はDD51が牽引する50系客車に乗っており、毎度毎度この部分の再現を試みるが、どうしても納得いくものに仕上がらないのである。鳥取より路線バスで鳥取砂丘を訪れており、沈む夕日は見られなかったが、暮れゆく日本海を眺めた記憶はある。その後、鳥取駅に戻って、ディーゼルカーで中国山地を越えた。鳥取発18時14分、岡山22時35分着の因美・津山線直通の陰陽連絡列車である。たぶんキハ47かキハ48だったと思われる。岡山駅の地下通路で「四国方面」の4文字に感動を覚えながら、宇野行きの213系電車に乗り継ぎ。これがデビューしたてのピカピカの電車で、新生JRを象徴するような存在として印象に残っている。その後、宇高連絡船で真夜中の瀬戸内海を渡り、生まれて初めて本州以外の地に降り立った。高松からはDE10が牽引する50系客車に乗り継いだ。当時、0時40分着の宇高航路夜行便に接続して、松山方面へは気動車急行が連絡し、高知方面には客車鈍が走っていた。当然両方とも座席夜行で、こんな列車が全国各地を走っていた時代である。50系客車の高知到着は朝4時35分。その足で「はりまや橋」まで歩き、「こんなものか」とがっかりした後、来た列車と同じ編成の50系客車で高松方面へ折り返した。

こうしてみると既に鬼籍に入ってしまった車両が多く、完璧に再現するのは不可能であるが、すべて普通列車で同じルートをたどれば、見えてくるものがありそうな気がする。特に智頭急行が開通して以来、陰陽連絡線から地方閑散路線となってしまった智頭〜津山間とか、宇高連絡船の廃止とともに寂れてしまった宇野線など、ここ30年来乗っていない線区もあり、こういう企画でなければ一生乗りそうもない路線に乗れるのは楽しみである。臨時列車となり、運転期間が短縮されてしまった大垣夜行(=ムーンライトながら)を使えないので、浜松の出発が繰り下がり、鳥取砂丘に立ち寄る時間が捻出できないのが残念だが、できるかぎり30年前の旅を忠実に再現するべく、6時42分の岐阜行き普通列車で浜松を出発した。

朝から雨が降る生憎の天気だが、30年前も雨が降ったりやんだりだったので、こんな天気も忠実再現にとっては好ましい。いつものとおり35分ほどで豊橋に到着。岐阜行き普通列車なので、このまま乗っていてもいいが、その後の乗り継ぎの関係で快速列車に乗り継いだ。10分後に発車する特別快速でも、大垣では同じ列車に接続するが、大垣〜米原間は18きっぱーの鬼門とされており、座席確保のためには1本でも早く大垣に着いていることが望ましい。というわけで豊橋での一服タイムを惜しんで、7時20分発の快速列車に乗車した。


踏切の障害物のため30分以上遅れて大垣へ


米原行きを待つため45分ホームで立ちんぼう


予定より1時間遅れて京都に到着


30年前はなかった嵯峨野線快速電車


姫路のおかめ弁当を購入

豊橋から乗り継いだ電車も313系。それでも快速運転のため気分が全然違う。次の停車駅の蒲郡で、大方の座席が埋まった。私は休みだが、当日は新年度開始直後のド平日。金山到着8時12分という通勤通学のラッシュ時間帯に重なる列車である。順調に走っていたのはこの辺まで。次の停車駅、岡崎の手前でスピードを落とし、ついには停車してしまった。車掌さんの案内によると、先行列車が相見〜岡崎間の踏切で障害物を感知し、そのための信号停止とのことだった。列車は10分ほど現場で停車し、岡崎駅のホームへ進入。岡崎までたどり着いたということは、先行列車(おそらく一本前の各駅停車)も岡崎を発車したということであり、大したことはなさそうである。この時点では「タバコを我慢して一本前の快速に乗っておいて良かった」と、自分の判断の素晴らしさを自画自賛していたのである。

おそらく一本前の各駅停車が遅れているので、岡崎を発車しても先行列車のペースにつき合わされて、快速とはいえノロノロ運転が続く。前を走っている各停を抜く刈谷までノロノロが続き、刈谷発車時点で遅れが15分となった。大垣の乗り継ぎ時間がギリギリとなってしまったが、ここから回復運転すれば、まだ望みがある。ところが目論見ははずれ、一向に快速列車らしい走りをしない。「さては、まだ遅れの原因となった列車が前にいるのでは?」 予想は当たり、先行列車で急病人が出て、金山で救出中とのこと。おそらく遅れのために車内がスシ詰めで、二次被害が出たものと思われる。これで行程どおりこなすのは絶望となった。18きっぱーはこういう時に無力で、どんなに遅れようが新幹線振替のような救済措置を受けられない。言うなれば最弱のきっぷを持っているようなものである。

結局、共和までノロノロ運転が続き、そこからようやく快速らしい走りとなった。名古屋発車がちょうど30分遅れとなり、大垣で仮に接続列車が待っていても、その先の米原でJR西日本の新快速が接続待ちをするわけがない遅れとなってしまった。この時に私は「浜松を始発列車で出発していれば」と猛烈に後悔した。40分前に遅れの原因となった踏切を通過していれば、こんなことに巻き込まれずに済んだはずである。その後、列車は普通に走ったが、大垣駅の手前で信号待ちにひっかかり、9時26分に大垣駅に到着した。32分遅れで、豊橋から2時間以上かけてたどり着いたことになる。

さて大垣駅は、下り列車のダイヤの乱れを受けて大混乱。一応9時43分の米原行きを待つために、9時半ころからホームに立ったが、定時になってもいっこうに入線してこない。その間に続々と名古屋方面から快速列車が到着し、ホームは米原行きを待つ人で長蛇の列となった。混乱に輪をかけるように回送列車が入線し、そのたびに勘違いしてその列車に乗ろうとした乗客に、強い口調で放送が入っていた。私が乗っていた列車を含めて5本の快速列車が到着した後、乗り継ぎの乗客で膨れ上がったホームに、10時15分ごろ米原行きがようやく入線。45分間ホームで立ちんぼうした甲斐があって座席を確保したが、またもや通勤列車並みの混雑で米原駅を発車した。大垣での混乱をよそに、この列車は快調に走ってくれ、米原発10時50分の新快速に間に合った。結局のところ行程の遅れはちょうど1時間で確定したわけである。

新快速の車内では、車窓に脇目もふらずに携帯をいじっていた。今後の行程を立て直すため、「えきから時刻表」で山陰方面の時刻を調べまくった。焦点は県境をはさむ豊岡〜鳥取間の閑散区間である。ところが当初の予定である城崎温泉14時57分の浜坂行きに間に合う列車が見つからない。京都口はもちろん、福知山線、播但線のそれぞれの特急を探したがダメ。もう山陰線をあきらめようかと思ったが、鳥取駅を18時40分に出る特急スーパーはくと14号に乗ると、智頭で因美線の当初の列車に追いつくことが判明。となると豊岡16:00発→浜坂17:14着、続いて浜坂17:21発→鳥取18:12着と乗り継げばよいことになる。豊岡に16時に到着するには、福知山を14時44分に出る特急きのさき7号で間に合う。このまま順調に福知山まで乗り継いでいけば14時04分に到着するので、特急を2本利用するものの、今日中に路線を変更せずに宇野まで向かうことが可能なのが分かった。ご存知のとおり、青春18きっぷは特急利用の場合、特急券のほかに乗車券も購入せねばならず二重投資となるが、背に腹は代えられない。逆に福知山〜豊岡間の1,940円と鳥取〜智頭間の1,330円だけで済んでラッキーともいえる。懸案は解消され、ようやく岡崎以来の平穏の時間が訪れた。

京都で乗り継ぐ間に駅弁を仕入れ、山陰線ホームで次の列車を待った。駅弁を買うのは久しぶりだが、学生時代は金欠にも関わらず駅弁を進んで買っていた。中学以来の時刻表テツだった私は、時刻表の欄外に載っている特殊弁当に強い憧れを持っており、旅先で目にするたびに積極的に買っていたのである。今回は30年前の再現ということで、列車での食事は全て駅弁と決めていた。京都駅でも姫路駅の「おかめ弁当」を売っており、ビールと一緒につまみのように食べるので、おこわ飯に味がついているのは好都合だった。京都〜園部間はJR西日本の「アーバン・ネットワーク」に含まれており、純然たる通勤線区なので、駅弁を食べるのにそぐわない気もするが、221系転換クロスシートに持ってきて、車窓も保津峡を走る風光明美な区間であるので、構わず弁当を広げた。今は嵯峨野観光鉄道になっている旧線を30年前には経由していたが、それは遠い昔。トンネルとトンネルの間で一瞬見える保津峡の眺めも、また格別である。学生時代に一度だけバイクで訪れたことのある亀岡を過ぎて、京都から37分で終点園部に到着。30年前はキハ58に乗車して園部まで来ると、京都から遠く離れたところという印象を持ったが、今では京都の立派な通勤圏である。

園部で2分の待ち合わせで、福知山行きの223系普通列車に乗車。まったくタバコを吸う暇を与えてくれない。この列車も転換クロスシートで快適だが、2両編成のワンマン列車だった。園部から4つ目の胡麻で車内は閑散とし、典型的なローカル線の雰囲気となった。この駅で特急列車の通過待ちのため7分停車したのを始め、次の下山でも対向列車である特急の通過待ちで8分停車、そのまた次の和知でも列車交換をし、電化されているとはいえ単線区間を走る鈍行の悲哀を味わいまくった。まぁこれがローカル線の旅の楽しみだと言えなくもない。そんなこんなで園部から1時間20分かけて終点の福知山に到着した。

福知山で途中下車し、きっぷを追加購入した。また、ここで自宅を出て以来8時間ぶりにタバコを吸った。全て転クロのクルマを乗り継いだので、列車に乗っている限りは禁煙も気にならなかったが、ここからは本格的にアルコールも入るし、果たしてどこまで我慢できるか見ものである。福知山での40分の待ち合わせ時間はあっという間に過ぎ、いよいよ禁断の特急列車に乗車した。豊岡までの1時間弱は、自由席とはいえハイバックのリクライニングシートを深々と倒し、ハイボールを飲みながら過ごすという至福の時を味わった。普段乗り慣れている特急列車も、青春18きっぷの旅で使うと有難みが何倍にもなることが分かった。

豊岡からはついにディーゼルカーが登場する。30年前の旅では50系客車に乗車した思い出深い区間である。当時の私は「夕やけニャンニャン」にはまっており、当時リリース直後だったおニャン子クラブのアルバム「サイドライン」をお供にして旅をしていた。なかでも国生さゆり、内海和子、高井麻巳子の3人による卒業ソング「春一番が吹く頃に」の印象が強く残っている。とある山間の小駅に停車中、満開の桜の花を見ながらこの曲を聴いた思い出は、30年経った今でも鮮明である。ところがこの曲を聴いた小駅が分からない。進行方向右手が海側なので、当時はそちら側に座っているはず。ということは、停車中に見える右手の桜が候補になるが、主だった桜は進行方向左手にあるので全て却下である。これまでの経験上、心象風景はことごとく上書きされて美化されるので、もしかすると車窓左手の桜かもしれないが、それはそれで候補が絞り切れず困ったことになる。あまりにも有名な余部鉄橋や山陰海岸を眺めながら列車は進み、豊岡を発車してから1時間あまり経ったころ、浜坂の1つ手前の久谷駅で右手の桜を見つけた。心象風景では線路のすぐ脇の桜だが、ここの桜はけっこう離れたところに見えている。それでもこの後、鳥取までの間でこれ以上に雰囲気が合っている駅はなかったので、この久谷駅の桜が美化されて心象風景になったと思われる。まぁこんな感じなので、今まで何度チャレンジしても納得する結果にならなかったんじゃなかろうか…。


園部〜福知山間は223系2連。転クロは続く


福知山駅で途中下車。自宅以来ようやく喫煙


18きっぱーにとっては禁じ手の特急を利用


豊岡からは国鉄型。30年前にタイムスリップ


昭和の鉄道風景。満開の桜が車窓を過ぎる


何度通っても新しくなっても余部鉄橋はいい


「春一番が吹く頃に」を聞きながら眺めた車窓


まさに「掃き溜めに鶴」浜坂の瑞風


浜坂で首都圏色どうしのキハ47を乗り継ぎ


音さえ気にしなければ50系客車の雰囲気


いよいよ鳥取県。鉛色に沈む東浜海水浴場


進行方向左手は駅ごとに満開の桜が出迎え


鳥取といえばカニの駅弁

浜坂で乗り継ぐ列車もタラコ色のキハ47。続けて2本同じような編成に乗ると飽きてしまうが、30年前に乗った50系客車と同世代の車両なので、車内もどことなく似通っていて好ましい。乗り継ぎの間にJR西日本ご自慢のクルーズトレイン「トワイライトエクスプレス瑞風」が発車していった。山陰線も運行コースに入っており、おそらく試運転中だろう。浜坂のような駅で見ると、まさしく掃き溜めに鶴という雰囲気である。

鳥取行きの普通列車は17時21分に浜坂駅を後にした。オリジナルの旅では既に鳥取砂丘に着いている頃だが、1時間遅れの行程では仕方ないところ。せめて鳥取砂丘の東側にある東浜海水浴場の車窓で、当時の雰囲気だけでも味わっておこうと思い、シャッターを押した。駅間の長い区間ゆえ、各駅停車とはいえ快調に走り、鳥取には18時12分に到着した。ここでも途中下車し、駅弁を購入。鳥取といえば「かに寿司」か「かにめし」と相場が決まっているが、両方とも味わいたいので「かにづくし弁当」を購入。再びホームに上がったら、日が暮れていた。ここからはナイトセクション。まずはスーパーはくとで智頭までひとっ飛びである。

普通列車で47分かかるところを、特急ではわずか27分。智頭でついに元の行程に追いついた。また30年前の旅程にもここで追いつき、中国山地の暗夜行路の再現となる。次の因美線津山行きは快速列車。とはいえ落石防止のため至るところで25キロ制限があり、快調に飛ばす列車だと思って乗るとびっくりする。まぁその前に全長16.5メートルの小型車両でワンマン運転なので、快速だと思って乗る人はいないと思うが…。こんなキハ120の車内は、申し訳程度にクロスシートが付いており合計4区画。あとはロングシートだが、この日の乗車人数は私を含めて4人で、各々が1ボックスに1人づつ散らばってそれで終了である。ただしこのクロスシートのシートが固く、背筋を伸ばして座らないとすぐにお尻が痛くなるシロモノである。智頭〜津山間は距離が短いものの、そんなこんなで1時間10分もかかり、割と難行苦行であった。


本日2度目の禁じ手。スーパーはくと乗車


因美線の山越え区間を走るキハ120快速


ようやく30年前と同じ車両運用と出会う


宇野行きは213系ならぬ末期色115系


岡山駅地下通路の「四国方面」

人里離れた中国山地の山越え区間を通り抜け、津山に降りてくると大都会に来たような感じがする。これは30年前の旅でも感じたことで、久々に因美線に乗車したから思い出した感覚である。次の津山線岡山行きまで26分の待ち合わせ時間があり、ホームの喫煙所で一服。アーバンネットワークのエリアでは構内全面禁煙だが、そこを離れると大体ホームに喫煙所があるのがJR西日本の美徳である。JR東海ではこうはいかない。さて次に乗車する列車は、またまたキハ47の2両編成。実は30年前もこの区間ではキハ47に乗車しているはずで、宇野に向かう最終盤でようやく30年前と同じ系列の車両に巡り合ったことになる。ところが、福知山を出発してから6時間以上にわたってウィスキーを飲んでいたため、ボックスシートに腰を下ろすと同時に睡魔が襲ってくる始末。結局、津山線の記憶はすっぽり抜け落ちてしまった。


かつて栄華を極めた宇野駅はアートな駅舎に


濃霧の直島・豊島・小豆島行きフェリー乗り場


2日目も朝から予定通りにならない

岡山の1駅手前の法界院で目が覚めた。当然のことながら、津山とは比較にならないほどの大都市であり、日本でも有数の交通の要衝である。列車は何度もポイントを渡り、しずしずと岡山駅の一番西側のホームに進入した。金曜日の午後10時30分。鳥取からの沿線では、すっかり真夜中の雰囲気だったが、岡山ではまだ宵の口。このギャップは30年前と変わっていない。地下通路を通って宇野線のホームに急ぐ。「四国方面」という表示に、20歳の私は胸をときめかせた。まだ見ぬ本州以外の土地に思いを馳せたのだろう。その胸のときめきだけは、30年を経た今でもしっかり心に残っている。

22時31分発の宇野行きは末期色の115系。ここで宇野線でも運用のある213系だったなら、あまりのドラマに感慨を覚えただろう。1987年3月に宇野線に新製導入された213系は、翌月のJR発足と同時に備讃ライナーとして走り始めた。ちょうど時を同じくして旅をした自分にとって、新車の213系はあまりにも眩しく映ったのは前述のとおりである。しかし今回は213系よりも10年古い115系。そうそううまくはいかないものである。ちょうど帰宅ラッシュの時間であり、ほろ酔い加減のサラリーマンの姿が目立った。これなら酔っぱらった自分の存在を隠すのに好都合である。津山線同様、転クロに腰掛けると同時に睡魔に襲われ、茶屋町までの記憶がない。茶屋町で後続のマリンライナーを接続を受けて、あとは宇野線を終点まで走るだけ。宇高連絡船が在りしころは四国方面へのメインルートだったが、1988年の瀬戸大橋開通とともに斜陽のローカル線となってしまった宇野線。終点の宇野駅は、櫛形のホームは当時のままであるが、桟橋のあったところに駅舎が建っていた。外観はアートの島・直島の玄関口ということで、ポップアート風のデザインになっていた。宇高連絡船の面影はそこにはない。

第1回のSpring Tourでは、このまま高松に渡り、高知行きの夜行列車に乗る段取りだったが、現在はもはやこれ以上先に進めない。宇野駅前のUno Port Innという一風変わったホテルにチェックインした。外国人観光客相手の宿泊施設で、スタッフは英語でしゃべるのがデフォルトらしい。21時以降のレイトチェックインにはどういうわけか追加料金がかかるが、宇野駅周辺で他にWiFi完備のホテルはなく仕方ないところ。部屋は畳敷きにツインベッドが置いてあり、トイレ、洗面所、シャワーは各々の部屋専用のものが別のところに設置されている。部屋には鏡すらなく、あるのは誰だか分からない古い結婚式の写真と、砂川闘争だかの写真だけ。おそらく一回こっきりの利用となるだろうが、不思議なホテルだった。まぁともあれ明日は、新たな一歩として未踏の小豆島に上陸予定である。早いところ寝てしまおう。

翌朝、起き抜けの一服を宿の玄関先でしていると、スタッフから「good morning!」と挨拶された。てっきり外国人アルバイトかと思ったが、話してみると日本人だった。彼の話によると今朝ぐらいの濃霧だとフェリーは欠航するらしい。先行き不安になったが、まだ出航まで2時間以上もあり、それまでに晴れるだろうと楽天的に構えた。

ところが8時を回っても一向に回復しない。というより早朝より霧が濃くなっていた。とりあえずチェックアウトし港に向かってみた。すると直島・豊島・小豆島行きフェリー乗り場の前には、出航を待つ人で黒山となっていた。人波をかき分けて窓口にたどりつくと、非情にも「濃霧のため停船中です」の掲示がかかっていた。運航のめどは今のところたってないらしい。

フェリー乗り場で、いつ出るとも知れない船を待つよりも、とりあえず動いた方がいいと思い、宇野から脱出することにした。宇野駅から鈍行で岡山に戻る手もあるが、それならば前々から乗ってみたいと思っていた「渋川特急」で岡山に向かうことにした。渋川特急は両備バスの路線バスだが、かつて3列独立シート・フットレス付きの夜行バス並みの仕様で走っていたことがある異例のバスである。瀬戸大橋線が開業した後、宇野線の列車の利便性が悪くなったのを機に、路線バスで補完しようということで開設された。高速道路も有料道路も走らないが、宇野線列車とほぼ所要時間は変わらず、高頻度、低運賃で人気を博した。その後あまりにも乗客数が多くなり、3列シートから通常の4列シートになってしまったが、現在でもリクライニングシートの観光バスタイプで運行している。


運行を見合わせるフェリーの前でたたずむ人々


宿泊先の「Uno Port Inn」も霧の中


次善の策。興味があった渋川特急に乗車


一般道を走るが車内は高速バス並み座席


赤穂線長船行きは思い出の213系がキター


30年前デビューとは思えない洗練された車内


長船駅の跨線橋で撮りテツと化す

ちょうど8時19分発の岡山駅行きがあり、フェリー乗り場のバス停で待っていると、定刻より10分ほど遅れて霧の向うからバスがやってきた。並びの2席に1人ずつ座っている状態で、土曜日朝のローカル路線バスとしてはかなり混んでいる。後ろから2番目に並びの2列が空いている席を見つけ、そこに腰を下ろした。玉野市内で頻繁に乗降を繰り返し、そのうち進行方向左手に海が広がった。地図を見ると宇野線は茶屋町に向かって西に向かい、その後180度方向転換して岡山に向かうが、渋川特急はショートカットして真っすぐ岡山に向かっている。宇野線では見られるはずのない、岡山に向かって進行方向左手の海が、岡山市周辺の入江の一部として見えるわけである。そのうちバスは潮受け堤防のようなところを走り岡山市内に入る。すっかり濃霧は消えており、「新岡山港から小豆島に渡れるかもしれない」と一瞬頭をかすめた。次のバス停は築港新町。降車ボタンを押そうかとも思ったが、結局自重した。第一、フェリーが運航を再開しているのか分からないし、築港新町と新岡山港が、苫小牧東港と西港並みに遠かったら困る。そんなこんなで小一時間バスに乗って岡山駅に到着した。

岡山に着いた時点の自分の思いは、まだ小豆島行きを諦めていなかった。赤穂線の日生からの小豆島往復を目論んでいた。駅の窓口に行って日生→浜松の乗車券を、岡山→浜松に変更してもらい、そのついでに時刻表のページをめくった。これから間に合う日生発のフェリーは12時35分出航。小豆島の大部港に13時45分に到着する。小豆島からの帰りに利用予定だった折り返しのフェリーは14時25分発なので、都合40分間だけ小豆島に滞在できる。未踏の地である小豆島なので、たとえ短時間の滞在でも意味があると思い、日生に向かうことにした。岡山発10時24分の播州赤穂行きでも間に合うが、9時54分の電車で途中の長船まで先行するという手もある。赤穂線は213系が割と走っている線区なので、先に213系が来れば長船まで先行することにして、岡山駅の赤穂線ホームに上がった。

果たして9時54分の長船行きは213系だった。それも堂々の6両編成。デビュー当時の備讃ライナーは6両編成が基本だったので、30年前を彷彿させる編成に思わずテンションが上がってしまった。午前中に岡山を発車する列車なので、ご多聞にもれず車内はガラガラ。というわけで好き放題にシャッターを押した。デビュー当時と比べると、車内はリニューアルが施されていて、近郊型車両とは思えない豪華仕様になっている。2枚ドアの間にずらりと並ぶ転換クロスシートは壮観である。ドアと最前列のシートの間には、仕切りとして金属製の鉄板が付いていたが、ここはリニューアルによって分厚い仕切り板に変わっており、貧乏臭さが抜けている。JR東海の117系亡き後は、私のお気に入り車両の第1位に君臨しているが、それに相応しい車内である。

列車は定刻に発車し、東岡山までは借りてきた猫のようにゆっくりと走る。山陽線に別れを告げると、突如としてスピードを上げ、備讃ライナーを思わせる走りに感動した。西大寺でほとんどの乗客を降ろし、10時24分に終点長船に到着。30分の短い旅路だったが、30年前を思い出すには十分な時間だった。


213系備讃ライナーのことを思い出す筆者


デビュー当時を連想させる213系6両編成


長船駅は赤穂線区間列車の終点のひとつ


日生までの乗車の末期色2連は混んでいた


晴れていれば「夢伝説」が似合う日生駅


福田港に向けて出港するフェリーひなせ


日生名物カキオコをビールで


そして日生港でひとり残された

後続の播州赤穂行きが来るまで30分の待ち合わせ。まずは対向ホームに移動し、213系の編成全体を撮影。その後、折り返し岡山方面に出発するまで待って、跨線橋の上から撮影。かつて213系に乗るために福山まで行ったことがある私としては、こんな絶好の機会には撮りテツさんになるに決まっているのである。

テンション上がりまくりの6分間が終わり、長船駅の改札を出て、しばし散策。しかし出発までの30分間では、遠方まで足を伸ばすわけにもいかず、駅前周辺をぶらついただけだった。10時52分に到着した播州赤穂行きは末期色の115系。それも2両編成でめちゃくちゃ混んでいた。この旅で初めてクロスシートに座るのを諦め、日生までの30分間はドア付近のロングシートに座るはめになった。乗客のほとんどは中高年のグループで、何かイベントでもあるのだろうかと思った。

乗客の大半は下車することなく、結局、日生で私が先に下車する格好になった。さて、赤穂線に初めて乗車した20代のころ、日生から小豆島行きのフェリーが出ていることを知り、いつかここから小豆島に渡りたいものだと思っていた。カルピスのCMで見た海の風景と、ここ日生の風景がかぶり、CMソングだったスターダスト・レビューの「夢伝説」を聞くと、今でも日生の海を思い出す。しかし当日はあいにくの曇り空で、少し霧で霞んでいた。

小豆島行きフェリーの出航時間は12時35分で、まだ1時間以上もある。とりあえず腹ごしらえと思い、先日「鉄道ひとり旅」で見た「カキオコ」を食べに、駅の西隣の店に入った。「カキオコ」とは牡蠣入りのお好み焼きの略で、当地の名物の牡蠣が、お好み焼きの中に8個入っている。これをスーパードライと一緒に食べたが、プリプリの牡蠣の食感が楽しめ、かなり旨かった。なぜ当地以外でお好み焼きに牡蠣を入れないのか不思議なほどである。一皿平らげるとお腹はいっぱい。ビール大瓶と合わせて1,300円ほどと、お手頃な値段であった。

すっかり満腹になってフェリー乗り場に行ってみたが、まだ出航まで時間がある。「それでは」と、朝乗れなかった宇野〜小豆島のフェリーが動いているかどうかスマホで調べてみた。すると意外な情報を目にすることになった。12時5分から宇野発の便は運行再開したものの、姫路と小豆島の福田港を結ぶフェリーが11時15分より濃霧のため欠航したとのことである。日生に着いた時から当地の霧が気掛かりだったが、大部港のすぐ東隣の福田港が欠航になったとすると、大部からの帰りの便が欠航することも十分考えられる。小豆島に渡ったのはいいが、帰れないのは困る。さんざん考えたうえで、セーフティーファーストでフェリーに乗るのを自重した。

12時35分に小豆島・大部港に向けて、「フェリーひなせ」は出航していった。徐々に遠ざかっていく船を見つめながら、必ずいつの日か、ここ日生から小豆島に渡ることを誓った。さて、小豆島行きがなくなった以上、次善の策を考えないといけない。昨秋、赤穂線に乗った時に、面倒になって赤穂城をパスしたことを思い出した。赤穂城にはいつでも行けると思っていながら、結局一度も行っていない。災い転じて福ではないが、この機会にかねてから行こう行こうと思っていた場所に行くのも悪くはない。私は12時53分発の播州赤穂行きに乗り込んだ。

赤穂線を乗ったり降りたりして、最終的に赤穂城に行くのは、この前見た「鉄道ひとり旅」を忠実にトレースしているような感じだが、日生から15分で播州赤穂に到着。駅前から10分ほど歩いて、赤穂城の入口である大手隅櫓に到着した。江戸時代は赤穂城のすぐ南側は海だったとのことだが、例によってその後埋め立てられ、海岸は何キロも先にある。というわけで城内は起伏がほとんどなくて歩きやすい。まずは入口の近くにある大石神社を参拝。赤穂浪士あるいは忠臣蔵の話が世に広まらなければ、ここに大石神社は無かっただろう。城内にあった大石内蔵助邸宅の跡に、明治になってから創建された神社である。他の観光地と同様、ここでも中国語をしゃべる中高年の観光客が多くてびっくりする。外国の人に、家族ではなく主君の仇討ちの話は理解できるんだろうか?

次に、昨年12月に公開されたばかりの二之丸庭園で、少し休憩。公開されたばかりとあって、まだ立ち入り禁止の場所が多かったが、今後徐々に入れるようになるのだろう。そしていよいよ本丸へ。本丸櫓門の内部が今の時期だけ特別公開しているとのことだが、天守閣の公開ならともかく、櫓門の内部公開なので、大きな期待を持っていくと損した気分になる。そういう私もその1人だが…。せっかく櫓門に登ったので、本丸の逆側にある天守台をバックに記念撮影。この天守台は、もともと天守を造る予定だったが、藩主浅野家が京都御所の修理担当で、幕府から御所の修理を依頼されて金欠となり、天守の建築ができなかったそうである(諸説あり)。現代ではプロジェクションマッピングにより、ヴァーチャルな形で5層天守を見ることができるらしい。

天守台の上から城内を見渡し、とりあえず赤穂城に関してはお腹いっぱい。帰りは厩口から本丸を出たが、お堀に映った満開の桜が美しかった。城内を割と駆け足で回ったが、それでも1時間くらいかかった。14時30分ころ駅に戻り、ちょうど入線していた姫路行き普通列車に乗車した。というわけで播州赤穂を出発した時点で、予定よりも2時間も早くなってしまった。相生からはエクスプレス予約で新幹線の指定席を予約しており、普通なら2時間前の列車に携帯で変更できるのだが、今回は日生から(実際は岡山から)乗車券を発券しているので、特急券も早めに発券してしまった。この状態で列車変更してしまうと、一生懸命貯めているグリーンポイントがオジャンになってしまう。そういうわけで、エクスプレス予約の指定席特急券は、乗車ギリギリに発券すべきだということを学んだ。まぁ仕方ないので、姫路駅の新幹線待合室で時間をつぶすことにして、相生と姫路の間は500系こだまで移動した。

姫路発17時04分のひかり478号で、ようやく当初の行程に復帰した。新大阪でこだま678号に乗り換え、いよいよこの旅最後の列車になった。お気に入りの700系16号車喫煙指定席で、ゆっくりと水割りを飲んでいると、急にせつなくなってきた。思えば今回の旅は、「Spring Tour 30周年記念」と仰々しいタイトルを付けながら、実態はトラブルに次ぐトラブル、変更に次ぐ変更で、その名に相応しいものではなくなってしまったかもしれない。されど、おそらく死ぬまでこの旅のことは忘れないような気がする。今年のSpring Tourはこれでおしまい。次回からは、ついに50歳以上の特典を活かした旅をすることになる。ある意味では、私の中でターニングポイントとなる今回の旅であった。


港内で向きを変えて外海へと向かう


船を見送っていると複雑な思いが去来する


一度ゆっくり来たかった播州赤穂駅


駅から1キロほど歩いて赤穂城入口へ


大石内蔵助の邸宅に建てられた大石神社


昨年12月に公開されたばかりの二之丸庭園


赤穂城の象徴的建物の本丸桝形門


本丸櫓門とその後方の天守台を背景に筆者


天守台に天守は作られなかったという驚き


天守台から見た本丸跡と本丸櫓門


厩口門のお堀に映る満開の桜が綺麗だった


相生駅まで来れば浜松は目と鼻の先だ

<終>

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