山行記録
アコンカグア
日付 全日程 97/12/20〜98/1/11 23日間
内登山期間 97/12/23〜98/1/5 14日間
山域、山名南米アンデス山脈アコンカグア
目的 高い高い山に登る
参加者 3名(中川路、渡辺(トヨタ)、西川)
見所  
経路 北面通常ルート
内容  
装備  冬〜春山装備
宿泊  テント
アプローチ  
駐車  

以下、特に断りのない部分は中川路氏の記録です。
 アコンカグア登山報告

◆日程
<日数> <月日> <行程>
1 97/12/20(土) 成田(19:35)→
2 12/21(日)  LA→マイアミ→サンチャゴ(9:45) サンチャゴ→メンドーサ
3 12/22(月) 登山許可、食料購入、パッキング
4 12/23(火) メンドーサ→登山口→コンフレンシア(3370m)
5 12/24(水) コンフレンシア→イバーネス(3950m)
6 12/25(木) イバーネス→プラザデムーラス(4250m) 4500m付近まで高度順化
7 12/26(金) 休養日
8 12/27(土) BC→C1(5200m)→BC C1荷揚げ
9 12/28(日) BC→C1 C2荷揚げ
10 12/29(月) C1→ニトデコンドル近く(5500m)→BC
11 12/30(火) 休養日
12 12/31(水) BC→C1
13 98/1/1(木) C1→C2(5800m)
14 1/2(金) C2→SUMMIT(6959m) 3人とも登頂成功!!
→6000m付近で1時間ビバーグ→→C2
15 1/3(土) C2→BC
16 1/4(日) 下山準備&休養
17 1/5(月) BC→登山口→メンドーサ
18 1/6(火) 洗濯、後片付け、休養
19 1/7(水) メンドーサ→サンチャゴ
20 1/8(木) サンチャゴ観光
21 1/9(金) サンチャゴ(22:35)→
22 1/10(土) マイアミ→LA→
23 1/11(日)  成田(17:45)

◆装備について
(中川路)
・ガソリンバーナーは高山では詰まって使えないという話しを聞いていたが、われわれはMSRを持っていったが、5800mでも問題なく使用できた。GASバーナーも持っていったが、火力 が弱く炊事時間が長くなってしまうのでNGであった。
・C1にて、アタック用テント(ダンロップ)が強風のためポールが折れてしまった。
・BCにはエスパースを使用した。4,5人 用であるが3人でちょうどよかった。
・アイゼンは使用せず。グランドキャナレータ最初の雪田でアイゼンを使っている人もいたが回り込めばいいので問題なかった。
・アタック 時はストックを西川、ピッケルを渡辺、中川路が使用した。グランドキャナレータに雪渓を登るところがあるので、ストック、ピッケルいずれでもいいと思うが、いずれもないのは 苦しいかもしれない。

◆食料について
(中川路)
・渡辺シェフのおかげでバラエティに富んだ食事ができた。普通、山を下りたらあれ食べたい、これ食べたいといった欲望の虜になることがあるが今回はさほど感じなかった。ただ肉類が 少ないのでステーキが食べたいと思ったが。
・アルファ米はお湯を入れて指定された時間(20分)ちゃんと待てば、非常においしいご飯ができることを知った。
・缶詰コンビーフ、ジャカ ゙イモ、玉ねぎ、にんじんで作るカレーが味よくGoodであった。日本から持っていったカレー粉がよかったか?
(渡辺)
・缶詰コンビーフ、ジャガイモ、玉ねぎ、にんじんで作るカレーが味よくGoodであった。
日本から持っていったカレールー(ジャワカレー辛口)がよかったか? 切り干し大根を堅めにもど して醤油で味付けして一緒に食べた。Good。
・パック餅、白玉粉、粉あんこ、寒天の素も日本から持参した。
渡辺がBCでの休養日に、現地調達した材料と合わせて、あんころ餅(本当は しる粉を作ろうとした。)、 白 玉フルーツポンチ、白玉入り水羊羹、コーヒゼリーを作った。 大好評だった。(と、渡辺は思った。)
標高4250mで白玉入り水羊羹を作った人間は世界広しと言えどもそうおるまい。
・標高が高いせいか、そうめん、パスタはうまくできなかった。 棒ラーメンは比較的良かったが平地に比べると味が落ちる。
・残った日本食(そば、お茶付け、アルファ米の赤飯、寒天 の素etc.)を増田さんに差し上げたところ、大変喜んばれた。

◆薬品について
(中川路)
・胃腸薬、バファリン、目薬、などなど1式持っていったが、山の中では使用せずだった。
ただ、帰国便の中で中川路が腹痛をおこしたので、胃腸薬を飲んだ。
・予想していなかったが 手のアカギレが多数(5個所くらい)でた(中川路)。また、爪の生え際が痛くなったりしたので、オロナイン軟膏など持っていったほうが良かった。

◆予算について
(中川路)
・飛行機チケット 23万円/人
・現金として20万円(出発時のレート換算で$1500)を持っていったが、帰国後調べてみると$320くらい余っていたので、この旅行で使ったお金としては40万 円/人くらいだろう。

◆高山病について
(中川路)
・コンフレンシアにて西川が頭痛を訴えていた。また、BCに入った2,3日は頭痛(特に寝起き時)があったが、日数と共に解消された。それ以降は高山病の兆候なし。C1,C2においても頭痛は なかったと思う。

◆感想
(中川路)
アコンカグアを意識し出したのは、'96秋の平山協のお月見だったと思う。峰渓クラブの矢島さんが来られていて年末にアコンカグアへ行くので一緒に行かないか?と誘われた。その時は アコンカグアなど正に地球の裏側のことであって、そんなに難しくはないと聞いてはいたが長い休みを取らねばいけないし、何の準備もしていなかったのでお断りしたのであるが、頭の片 隅になぜか残っていた。年が明けて矢島さん、長岡さん、坂田さんが実際に登頂されたことを聞き、自分も行きたくてしょうがなくなってしまった。周囲に声をかけると何人か賛同してくれ る人がいたので、年末行きを決意し、すこしづつ準備を始めた。2月くらいから飛行機チケットの予約から始めたが時期が早すぎて予約が取れなかったりした。10月くらいには3人で富士山に 登った。長岡さんにはメイルがつながっているのでメイルでいろんな相談にのってもらった。出発直前は急激に仕事が忙しくなり一時は山行をやめようと思ったが、土日を全部休出してでも 参加しろ、とメンバーから励まされて(?)なんとか頑張りました。山行前の体力作りも思うようにできなかったので自分としてはあまり気負わずできたら登頂したい、くらいの気持ちだった のですがめでたく山頂に立つことができて非常に満足しています。
(渡辺)
メンドーサ入り後、今年は天候不順で登頂率が非常に低いと言う情報を耳にし、不安でしたが、アッタク時に好天に恵まれ登頂できました。 登頂後、ビバーグする羽目になり一時はどうなる かと思いましたが、幸運にも無事帰ることができました。 地球の裏側で無事を祈ってくれた方々に感謝します。

◆日記(中川路の日記より)

【12/20】家を11:30に出て途中平塚寮へ寄り、西川をピックアップして平塚駅へ向かう。
ラスカにて旅行傷害保険(約1万円)に入って、12:54発の電車に乗る。打 ち合わせ通り先頭車両に渡辺がいてメンバーが揃った。1人あたり大型ザック2つずつあるが、混んでいる時間帯でもないので白い目でみられることもない。成田空港は混雑していた。 クリスマス休暇を本国で迎えるため帰国する人が多いのだろうか?チェックインをするときに、携帯型酸素ボンベが係官に見つかってしまった。7000円くらいした代物なので廃棄するのも もったいなく自宅へ送り返すことにしたが、宅急便はボンベだと言うと配達拒否したので置物ということでなんとか送り返すことができた。出発前のささやかな幸福の時をコーヒーを飲 んだりして費やし、飛行機は定刻通り19:30に出発した。機内食は1回1回が軽くてすべて食べてしまった。昔は食べきれなかった記憶もあるのだが。

【12/21】昼になったり、夜になったり時差の関係がよくわからないまま、サンチャゴへ到着。空港ロビーで両替後、声をかけてきたポールマッカートニーに似た兄ちゃんが、市内まで 5$で行くと言うのでそれに決定。ほかのアメリカ人と思しき3人組とコレクティーボに相乗りで市内バスターミナルへ。メンドーサへ行くバスチケットを購入するために教えても らったTourBusという旅行代理店を探すが見つからない。結局、別の代理店に依頼した。バス代は1人$20。14:00に発。バスは非常にゆったりしていて、乗客は計20人くらい。トイレ付き。ガイ ドの兄ちゃんが気さくな人で英語は話さないがワインの当たるくじなどをやって乗客を和ませている。チリ〜アルゼンチンの入出国が荷物を開けたりで面倒くさいが何とかパス。途中洒落 たレストランで食事をしたりして21:40頃、メンドーサのバスターミナルに到着。増田さんに電話して迎えに来てもらった。夜遅かったが、増田さん宅にてご主人、奥さん、スサナさんと ミーティング。帰りに直接、プエンテデルインカからサンチャゴへ移動する案もあったが、メンドーサへ帰ってくることにした。今年はエルニーニョのせいかアコンカグア登山 にくる人は例年に比べて少ないそうだ。宿泊所の壁に去年の坂田隊の写真あり。ムーラ代、燃料代、手数料として1人$446支払う。われわれはどの地点までいけるのだろうか?今年はビエン トブランコ(白い風)が強くてなかなか頂上に立てないとのこと。安全第一で行きたい。僕個人としては登頂確率は30%くらいかな?と考えている。西川は日本での風邪が治りきってお らずセキがでて苦しそうだ。

【12/22】今日は準備の日。朝9:30にワルテル氏に連れられて登山許可申請、食料の買い出しをする。フランスの資本が入っているという巨大なスーパーマーケットへ行ってしこたま食料を買 い込んで帰宅。昼食をスサナさんに教えてもらったレストランへ行って食べようとするが結局わからず通り掛かりのピザ屋へ入った。スペシャルピザ(辛いオイルサーディン付き) 、サラダ、チキン、ビール等を飲食。西川は風邪が治っていないのでアルコール拒否で、自分一人だけでビールを飲んだ。レストランからは徒歩で片道約30分かかるがビールを飲ん での歩きだったので増田荘へ着いたときには完全にばてていた。それから荷物の梱包を行ったが、私1人ばてきっており寝込んでしまった(渡辺怒る)。夜は昼買っておいたステーキを焼い て食べた。ムーラに乗せる荷物は計100kgとなった。町は真夏そのもので暑いが、湿度が低いので不快感はない。

【12/23】朝5:00起床。荷物をRV車に積み込み、6:00出発。増田さん一家に見送っていただいた。景色は町並みから、徐々に岩ごろごろの山岳風景へと変わっていく。ペニテンテでリカルドに 荷物を預ける予定だったが、彼が不在だったのでそのまま車を走らせていると途中行き違ったリカルド(エジェルモという人かも知れない?)に会うことができ、荷物を預けた。われわ れの計画ではコンフレンシア→BCまで通常1日のところ2日かけて行こうかと思っている。コンフレンシア→BCは行程20km、高度差1000mなので2日かけて行ったほうが、高度順化のためには良い と考える。また、水分の補給には十分注意する必要があると思い、コンフレンシアに着くまでに2リットルくらいの水を努めて飲んだ。おかげで小便が近くてたいへんではある。登山口でレ ンジャにゴミ袋をもらって10:00に出発、アップダウンを繰り返して14:00にコンフレンシアに到着。道中うち捨てられているムーラの死体が哀れであった。

【12/24】天気は快晴。朝6:00に起床して8:30頃出発。今日の行程は長い(水平20km,垂直1000m)が途中水場がないので念のため、ビニール袋に水を詰め最も大きいコッヘルに入れて持っていく。最初 100mほど登った後、だだっ広い平原となりただ単調に歩いていく。途中、徒渉が必要だと聞いていたので裸足になって切れるように冷たい水の中を対岸に渡ったが、さらに上流で渡り戻す羽目 になった。他のグループは水流に対して右側を歩いており徒渉せずに済んだようであった。この部分で他の隊にゴボウ抜きにされてしまった。延々とがれ地を歩いてから登りがきた。気 分的にはもう少し登ればBCだなという期待感があったのだが、丘に登っても登ってもBCは見えず何度も希望は打ち砕かれてしまった。結局私はばててしまい廃屋になったところの前にテントを 張ることになった。水は途中で捨ててしまったので雪渓を溶かして水を作った。頭痛はなかったが体調が良くないのでインスタント味噌汁のみ飲んで早めに寝た。

【12/25】昨晩は夜中風が強かった。朝6:30起床。本日の予定はBCへ入ることである。天気はくもりで風強し。目前に立ちふさがる急坂を超えればBCだろう、と思っていたらまたもや期待を裏切ら れ1.5時間後、ようやくBCに到着。昨日BCまで頑張らなくてよかった、と思った。日本にある5万分の1地図みたいなものが存在しないようなので地図を見ながら自分の位置を確認しあとBCまで どれだけか見当をつけるようなことができないので大変である。この国は測量をやっていないのかな?我々の使った馬方Aconcagua Expressはテント村の一番上に位置していた。空身でそこまで移 動し荷物を確認した。水場に近い場所にエスパースを張り一息つく。13:00頃計画通り4500mあたりまで高度順化のため登ることにした。空身ではあるが結構キツイ。明後日荷揚げすると思うと ゾッとする。1時間くらい登り振り返るとテント村、ホテルが見えた。明日はホテルへ行って4日ぶりにシャワーでも浴びてビールでも飲もうかと企んでいる。乾燥しているせいかシャワ ーを浴びていなくても不快感はほとんどない。今日は少し頭がボーツとしているが頭痛はない。

【12/26】今日は一日休養日なので8:30まで寝ていた。朝食後、明日の荷揚げの選別を行う。C1,C2で消費する食料、テント、ガスなど。問題はフルーツポンチの4缶だが、1缶850gもあり非常 に重いので持って上がるかどうか迷ったが、増田さんの話によると高山病できついときにはこれが最も口に合うとのことなので、1缶試食してから判断することにした。1缶味見をしたが結 構おいしいので結局持っていくことにした。その後、15:00頃まで暑いテントの中で昼寝したり外を散歩したりして過ごし、ホテルへシャワー&dinnerへ行った。片道約20分間、途中雪渓を横切る ところがありスニーカーで行ったのでぐちゃぐちゃになってしまった。dinnerは19:30からだというのでやめにし、シャワーだけ浴びた。5分間で、$10/人。久しぶりだったのでさっぱりした。風 呂上がりにビールを飲んだが、おいしくなくて少し残した。テントに帰ってからハヤシ+パスタで夕食として20:20頃就寝。

【12/27】朝5:00起床。今日は今までで最も寒い。川の水も凍っていた。今日はC1へ荷揚げを行う。7:00過ぎに出発。風も強く、冷たくて顔が非常に痛い。ペースは順調で1時間くらいで三本槍 の所まで来た。ガラガラの石混ざりの登山道は歩きづらく疲れやすい。途中5,6張りのテント群があり西川が話をしたところ4900m地点であるそうだ。さらに登って行くとテントが2,3張りあ った。(ここがC1)寒くてかなわないので荷物を石で固定して早々に下山を始めた。登り4:30、下りは2時間くらいだったと思う。下山時に植村直己に似た人に出会い、色々と情報収集をする。 かなりばててしまいお茶を飲んでから昼寝をした。夜は20:10に就寝した。

【12/28】C2で使う荷物の荷揚げの日。今晩はC1泊なのでシュラフ、コッヘルなども持っていく。前日より気温は高くて条件はいいのだが荷物が重くて非常に辛い。C1まで6:30かかってしまった。 夜は風強くて寒くテント内壁に霜がつく。MSRではなくキャンピングガスを持ってきたのだが火力が弱くため、炊事にMSRの倍以上時間がかかってしまう。

【12/29】キャンピングガスの火力が弱いので朝の炊事に非常に時間がかかった。10:30頃出発しC2への荷揚げを行うが、強風、寒冷のため苦労させられる。ニードデコンドル(5400m)ま で1時間くらいで登った。テントを張っているグループ多数あり。奇岩が点在している。ここからさらに100mくらい登ったが寒くてかなわないので5500m付近で荷物をデポして下山する ことにした。C1のテントまで戻ったところ、ポールが折れてしまっていた。下山してBCにて修理することにする。C1に比較してBCは天国である。暖かいし風も弱い。

【12/30】今日はアタック前の最後の休養日。テントポールの修理、1/7予定の帰りのムーラの手配(相手が英語が通じなかったので理解してもらえたか不安)。昨日あたりから日本人が急に 増えた。ツアーで来ている人や労山のグループもいる。昼飯はアンコロ餅であったが良くできていて皆おいしいといって食べていた(?)。昼ワインを飲み、結構しんどかったのでインス タント味噌汁を立て続けに3杯飲む。夕方ホテルへ行き、シャワーを浴びディナーを食べた。ディナーは前出の植村氏も一緒であった。$15だが、ステーキが出なくて期待はずれに終わっ た。隣のテーブルには日本人ツアー客の10人くらいの団体がいたが、梅干し、マヨネーズ持ち込みで異様な雰囲気を醸し出していた。 (渡辺)村上もとか”岳人列伝”を皆で回し読みし、登頂意欲を高める。

【12/31】アタック第1日。BCよりC1へ移動。今までになく気象条件は良いようだ。風は相変わらず強いが寒くない。手袋をつけなくても冷たさを感じない。出発前の準備の時、寝るときに背中に 敷くマットが強風に吹かれて50mくらい飛ばされてしまい3人で探し回る、というハプニングがあった。最初どちらの方向へ飛んでいったかわからず探し回っていたが見つからず諦めかけ ていた頃、渡辺が見つけ出してくれた。また、馬方へ行って我々の下山予定日は1/7であること、ムーラは1頭ではなく2頭に増やしてほしいこと、増田さんにも連絡して欲しいこと、などを伝 えた。アタックは11:00出発して16:10にC1着。最初良いペースで歩いていたが途中ダウンした。天候は良い状態のままである。4日悪くて3日良い、というサイクルの良い3日が始まったのだろ うか?

【98/1/1】'98を迎えた。毎日同じようなことの繰り返しなので全然実感がわかない。日本では初詣でに出かける人も多いだろうなどと思ったりもする。7:30起床で朝食、テルモス準備などをして 風の収まるのを待っていた。9:30頃外へ出てテントを撤収し、10:00に出発。ニードデコンドルまで1時間。10張り以上のテントあり。次にデポした位置を探すがなかなか見つからない 。ザックをおろしてあちこち探し回る。20分後くらいにやっと見つけ出し、C2へ持っていくものとおいていくものを選別した。最も重いのはフルーツポンチの缶であるが持っていくのはた いへんだし、デポするのも結局は下山時重い思いをするのでその場で食べることにした。中のミツが凍っていてシャリシャリ音を立てながら食べた。急坂を登って15:00ベルリン小屋前 に到着。さらに上まで行くかどうか迷ったが、明日アタックは空身だし、風も強くなってきたのでこのまま泊まることにした。強風の中、テントを張り明日に備える。

【1/2】今日は頂上アタック本番の日。風が強いが快晴。7:00に出発して順調に高度を稼いでいく。天候が良いので予備日を使わずに今日中に決めてしまいたい。(早く下山してサンチャゴで 遊ぶ時間を確保したい、という本心もあり)他にもスペイン隊、韓国隊、米国隊、と国際色豊かである。インディペンデンシア小屋(6300m)の直前は黒っぽい石が歩きづらくてこれが、 グランドキャナレータ(アリ地獄)かと早合点してしまった。小屋は屋根もなく吹きだまりができていてビバーグ用にしか使えないようであった。少し登ると眼下にBC〜ニード デコンドルが見下ろせるトラバース道を進んでいく。トラバースが終わるあたりが雪田になっており、ここからが悪名高きグランドキャナレータの始まりだ。石と土のミックス された急坂であるため足元が不安定で登りづらい。しばらく登って非常に腹筋が痛いのに気づいた。バランスがとりづらいので自然と腹筋に力を入れているのであろう。前後を見ると動い ている人もいるがたいていの人はその場にたちすくんでいてなんだか妙な光景である。登っているときは長いとも感じられなかったが4時間くらい格闘したであろうか、15:00ちょうどにアコン カグア頂上に到達した。風も弱く大快晴で荷揚げの時とは違ってすばらしい天候になったことに感謝した。先に到着していた渡辺と写真を撮ったり、石を拾ったり、周囲をぐるぐる回った りした。日本を発つとき嫁さんが渡してくれたメッセージ入りの家族の写真を十字架を固定している石の下に置いた。ビデオで周囲の風景を撮影した。登ってくる人達の中に西川がい た。あまり遅くなると下山時暗くなると困るのでザックを置いて空身で登ってくるように声をかけた。空身の西川は16:10頃到着。結構疲れているようだった。16:30ころ下山開始。下山直後よ り西川がまともに歩けない状態であることがわかった。登りにエネルギーを使い切ってしまったか?暗くなるまであと4時間。なんとかC2まで下らねばならない。この高度(6000m以上)でビハ ゙ーグすることは危険極まりないことだ。叱咤激励しながら西川には歩いてもらった。グランドキャナレータを下りきるころには周囲に夕闇が迫っていた。水平トラバースになった あたりで彼を背負ってみたが100kgの人を背負っているかのようにすさまじい重みで全然話にならなかった。インディペンス小屋を過ぎたあたりで完全に日が落ちてしまった。この時はイ ンディペンデンス小屋あたりは6000mと思っており、ベルリン小屋までは200mなのでなんとかたどり着けるだろうと思っていた。暗い登山道を下っていると一人の韓国隊登山者と出会っ た。彼はヘッドランプすら持っておらず、ベルリン小屋まで行きたいのだがルートがわからないという。仕方がないので一緒に行きましょう、ということになりヘッドランプを頼 りに鵜の目鷹の目でルートを探って下りていったが、結局道がまったくわからなくなってしまった。西川は極限近く歩きつかれているし、このまま道がわからないまま下りていったらどこへ 行ってしまうかわからない。かなりやばいことになったがビバーグするしかないと判断した。適当な岩陰を見つけてツェルトを張る。初めてのフォーストビバーグを6000mの高度 でこんな形で迎えるとは。。トホホ。明朝どんな状態になっているか想像すると恐ろしかった。とにかく4人(韓国人を含む)でツェルトをかぶって1時間くらい経過しウトウトし始めたころ 近くで人の話し声が聞こえた。あわてて立ち上がり大声で聞いてみた。"Where are you going?" 彼らは5,6人のグループでベルリン小屋へ下りていくとのこと。では、一緒に連れていってくれ 、準備をするのでちょっと待ってくれ、と藁にもすがる思いで頼んでみたが彼らも急いでいたのか、そそくさと行ってしまった。しかし下山する方向が判明したので我々も彼らの行った方向 へ下りていくことにした。しばらく下りてから再度ルートを見失ってしまい、またビバーグかと思ったが道を見つけ直すことができたのでダメ元で進むことにした。夜中の1時半頃よう やくベルリン小屋のテント前に到着できた。テントの中でお茶を飲み、登頂できた喜びよりも帰還できた喜びに浸っていた。とてつもなく長い一日がこうして終わった。

(渡辺の1/2の手記)
1998年1月2日、朝6:44、薄暗い中C2(5800m)を出発。 気温−15℃、雲1つない、 風は冷たいが強くはない。絶好のアタック日和だ。 チャンスは今日 しかないだろう。先頭をいく中川路も同じことを考えている。 いいペースで飛ばす。彼は空荷だと強い。渡辺の後ろに若干距離を置いて 西川が続く。 出発後、約7時間、 頂上直下グラン カナレーター(巨大な蟻地獄)と呼ばれるガレ場。
ここは気圧307mmHg、平地の4割しかない。右手に持ったピッケルを地面に刺す 3歩進む、ハー、ハー、ハー、ハーと強く4回息をする。 そんなことを、もう1時間も繰り返している。
いつのまにか渡辺が先頭。中川路との間隔約50m。西川の姿は渡辺からは
確認できず。渡辺はスペイン隊(3人)の後ろにつけている。 空は雲1 つない。そうか、この好天は地球の裏側で地面に向かって祈って くれているであろう女神のおかげなのだ。 (間違っても宮爺の仕業ではないだろう) サングラスの下に涙をためながら さ らに頂上に向かって歩を刻む。岩をまわりこんだところで不意に頂上の 十字架にでる。スペイン隊のメンバーとかわるがわる抱き合って喜びを わかちあう。現地時間1月2日14:46渡辺登頂。
辺りをみまわせば、遥か彼方まで雪化粧したアンデスの山々がつづく。 だが、我々がたっている所より高いところはないのだ。 空は限りなく青い。 13分後、中川路登頂。互いに ニヤリと笑い無言のまま握手し、だきあう。 日の丸と寄せ書きの手拭いを持って写真を撮る。 中川路が家族の写真を手に持っているところを撮る。 至福の時。 さらに1時間遅れて西川も登頂。 西川消耗した様子。鼻水を拭う気力もないようだ。 30分程休憩させて16:30下山開始。
登りは8時間かかったが、下りは4時間でC2まで帰り着けるはず。 明るいうちに着けるだろう。(21:00頃まで明るい)
渡辺先行する、振り返ると西川遅れている。”様子が変だぞ!”中川路が叫んだ。
西川は登りで力を使い果たし”脚に力が入らない。”と言う。 ガレ場の 下りで頻繁に尻餅をつく。励ましながらなんとかグランカナレータを 抜ける。予想より倍以上時間かかっている。中川路が西川をおぶろうとするが 標高6400mでは20m進むのがやっと。
西 川、”インディペンデンシャル小屋(6300m廃屋)でツェルトでビバーグする”と 言い出すが リスク高すぎるとおもわれる。西川を説得しさらに下る。
インディペンデンシャル小屋下の斜面を 下り、平坦部に出たところで暗くなった。2 1:30.
西川、”長島さんが云々”などとあらぬことを口走る。中川路が西川を座らせテル モスの 紅茶を飲ませる。更に少し下ったところで謎の 韓国人クライマー登場。
ほとんど真っ暗になりかけた時、下からあがってきた韓国人のおっさんとすれちがう、
”コンドル(我々のC2のあるところ)に仲間がいるので行きたい”という 。
内心”それどころじゃない”と思うが一緒にいくことになる。ヘッドランプは中川 路、渡辺の
2個だけ。中川路先頭で真っ暗な中を下って行く。渡辺は中川路のルートファインデ ィングに
一目置いているので、すべてを彼に託し、西川のサポートにまわる。
西川はときどき放心したように立ち止まる。渡辺が後から声を掛け、なんとか あるかせる。そうこうしているうち にルートがあやしくなってくる。
23:00ルート見失う。”こりゃ、ビバーグだな”と、内心思っていると
中川路が”ビバーグしよう”といった。韓国人のおっさんに告げると、 ”Is there any space for me?"と、不安げに言う。
”ツェルトはあるが西川の具合が悪いので西川が優先だ”と説明する。 韓国人のおっさんうなづく。 近くの岩陰に4人並んで座る。。 向かって左か ら渡辺、中川路、西川、韓国人のおっさんの順。 温度計は−10℃。
足指の血行を良くするため登山靴を脱ぎ足をザックに入れる。
尻の下にスパッツと登山靴を敷く。ツェルトを下半身に かける。
手の指が冷えぬよう股に挟む。6:00頃まで耐えればあかるくなるはずだ。 まさか標高6000mでビバーグする羽目になるとは。 明け方には、−15℃か−20℃になるだろう。 しかし、まあ、死ぬことはないだろう。 自分でも不思議なぐらいおちついている。 消耗した西川が朝まで耐えられるか心配だ。
やがて背中の方から冷えてきて、がたがた震えがくる。
そのうちウトウトとする。ふと、気づくと遠くで人の声がする。4,5人の ヘッドランプが見える。 中川路叫ぶ”We lost the route!Can you show us the route to Berlyn?" "Yes,follow us."と、答えてきたがどんどん行ってしまう。
皆急いで靴を履きランプが進んで行った方向へ歩き出す。24:30だ。 中川路が踏み跡を見つけそれをトレースする。 途中ルートを失いかけるが中川路の懸命 のルートファインディングで C2にかえりつく。韓国人のおっさんも仲間のテントを見つけたようだ。
お茶を沸かして一息つくと2:00であった。長い1日だった。 ”ありがとう”地球 の裏側の女神に感謝して羽毛のシュラフにもぐりこむ。 翌朝、西川も無事目を覚ました。 中川路が言った。
”さあ、とっとと山をおりて、サンチャゴで乱痴気騒ぎやろうぜ”

【1/3】今朝はゆっくりと起床し、十分な朝食を摂り下山の準備をした。疲労の限界まで行っていたと思われる西川が朝、大丈夫だったのでホッとした。午後C2を撤収し夕方6時過ぎBC到着。今 日は快晴で暖かい日だったので数多くの登山者がいた。夕食はBC近くのレストラン(青いシートで設えられた即席レストランだが。)へ行き、ステーキを頼んだが、明日ムーラが運んでくる ということなので、結局スパゲッティを注文した。おかわりもOKで$20.下山予定を1/5に変更することを馬方へ連絡した。明日は準備をのんびりとやることにしよう。

【1/4】下山準備といっても今晩もテントに泊まるわけだし、準備自体はすぐできそうなので手をつけず、天気もいいのでホテル裏の山へ登れるだけ登ってみようという気になった。他の2人に 声をかけるがテントに残っているというので、自分1人で登ることにした。見かけは登れそうに見えても実際取り付いてみると、その懐の深さに驚かされるのがこの辺の山々の特徴ではないだ ろうか?ホテル裏の氷河上まで行くのがやっとであった。ホテル裏の残雪の上にも人が歩いた跡があり、だれか山のほうへ歩いていったことがわかった。私はスパッツを持ってきてなかった ので靴に雪が入り込み、冷たいので途中で登るのを諦め石の上で昼寝をした。日差しが非常に強く日射病になりそうだった。その後ホテルに寄ってシャワーを浴びテントへ戻った。

【1/5】BC→メンドーサへ戻る日。待ちに待った日である。5:00起床で朝食は昨日から作り込んでおいたカレー。カレー粉がいいのか、コンビーフがいいのかわからないがコクがあって実に うまい。朝食後荷造りをして8:20BCを後にする。天気は良いのだが風が強くて土煙が舞う。追い風なのがせめてもの救い。登山口近くでは向かい風に変わった。逆方向(BC方向)へ向かう人達とす れ違うと、「お疲れさま」と声を掛けたくなる。このうち何人が頂上に立つことだろう。我々の場合、良い条件に恵まれたけれどもこれからどうなるかわからない。神のみぞ知る、である。4 :40登山口着。8:00PMに迎えの車が来ることになっているので、レンジャーのテント内で待たせてもらう。6:30頃だったか増田さんのところからの迎えが来たので車に乗ってペニテンテへ向か う。ペニテンテでムーラの荷物を受け取ることになっているがム荷物は8:30頃到着した。荷物を積み込んでからメンドーサへ向かう。山の蓄積した疲れが出たのか非常に眠くて車内で眠り こけていた。メンドーサ市内に入ったあたりでレストランに入りたらふくステーキ(アサード)を食う。サラダ、ビールすべてがメチャクチャにうまい(4人で$45)。増田荘へ24:00頃帰着。

【1/6】今日は一日休養日。洗濯、荷物の整理。朝食はパン、バター、フルーツ、ジュース、ジャムetcを芝生の上で食べる。さわやかな天気の中で至福の一時。昨日受け取った荷物を 調べてみると、小さいほうのザックの上蓋部の中身がすべてなくなっていた!頂上で拾った石も全部なくなっていた!!また、ガソリンを入れていたポリタンもなくなっており、ポ リタンと一緒に入れておいたMSRの赤いタンクがなぜか赤い大ザックの上蓋に入っていた。高価なものが盗まれているわけではないのだが、荷物を開けられているのは確実である。しかし、 その目的がよくわからない。増田さん奥さんには、全員登頂したと伝えると非常に優秀だと誉められた。夕方、奥さんの運転で市内の革製品店へ見学へ行く。皮ジャンなど高価なものが多 い様だ。あまり興味もないし金もないので買わなかった。その後市内をぶらぶらしてからショッピング(メンドーサ一の繁華街らしい)へ行き、パリジャーダを食べる。量が多く て半分近く残してしまった。

【1/7】メンドーサ→サンチャゴへ飛行機で移動する。飛行機の出発時刻がエンジントラブルで遅れたため、増田荘外の藁葺き屋根の下で日記を書いたり果物を食べたりして過ごす。 増田さんが来られてしばし世間話をする。増田さんはアルゼンチンに来られてすでに40年にもなるとのこと。チリのシーフードはうまいがウニのテンコモリはやっぱりまずいとか、最近 は韓国人などもアルゼンチンに移住してきているが評判がよくないとか、バルバライソは恐ろしいところであるとか、興味深い話をいろいろ聞かせていただいた。 ワルテル氏に飛行場 まで送っていただき、National航空でサンチャゴへ向かう。飛行機の窓からは雲をかぶったアコンカグアが雄大に見えていた。サンチャゴ空港で登山関係の装備類を入れた大きなザッ クを預けて荷物を軽くし、バスで市内へ移動する。バスを降りてからアルマス広場のほうへ歩いていき、近くのホテルエスパーニャにチェックインした。部屋の作りは木製で非常に古い様 相。大きな地震が来たらやばいであろう。晩飯は市内を歩きまわったが適当なところが見つけられず、結局ホテル隣の居酒屋みたいなところで食べた。

【1/8】中央市場へ行って目的であるシーフードを食べることにした。中央市場には魚介類、野菜、果物からインカの秘薬までいろんなものが売られている。適当な食堂に入って、英語の通 じないおばさんにいわれるままに適当に注文した。出てきた料理は結構うまかった。その後、河のほとりのベンチで一休みし、買った果物を食べた。その後、中央市場の北側へ歩いていっ てその場所が非常に大きな市場になっていることを発見した(地球の歩き方にも載っていない)。夕方、ケーブルカーでサンクリストバルの丘に登る。サンチャゴはポリューションの 町と言われるとおり、遠くが霞んでよく見えない。丘の頂上には両腕を広げた巨大なマリア像?がある。土産物売り場でTシャツ、帽子を購入。

【1/9】今日で南米ともお別れである。朝、中央市場へ行ってシーフードの朝食を食べ、現代風スーパーマーケットにてお土産にできそうな食品(お菓子、粉末ジュースなど)を買い込む 。アルマス広場へ行って、夕方までの時間つぶしをどうするか考えた。結局、広場隣の国立歴史博物館へ行った。スペインからやってきた侵略者バルディビアの絵などが置いてあり 、地球の歩き方に出ている簡単な歴史概要と照らし合わせて見ていると結構楽しいものであった。そのあと、国立美術館へ歩いた。「家族」という作品が置いてあったがどこかで見たことが あるような気がするので有名な作品なのかもしれない。その後、再び中央市場へ行ってシーフードの昼食。貝のチーズ焼き、ソパデマリスコスなどを注文。最後のスープが貝がな んとなく臭くて怪しいかったので少な目に食べたつもりだったが、後程エライ目に合うことになる!ロスヘレオス近くまで歩き、タイミング良く停まっていた空港行きバスに乗る。空港 で、チリモヤジュースを飲んだり土産物屋を覗いたり、また無事に西川とも再会できた。この旅行で一度も剃らずに伸び放題だった髭をサッパリ剃った。飛行機は予定時間(22:35)より遅く離 陸した。

【その後】 中央市場で食べた昼食のシーフードが当たったらしく、吐き気に襲われ機内食が全く食べれず。ロサンゼルス過ぎからなんとか調子を取り戻した。日曜日夜、日本に帰ってき てからは夜中に下痢が激しく、翌月曜日は会社を休んでしまった。丸一日家で寝ていたら体調も回復し火曜日から出社できた。 (渡辺)渡辺も中川路と同じ物を食べたがなぜか平気で中川路の分も機内食を平らげていた。

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