フィアット・パンダ基礎知識・番外編

  ンダはいかにしてンダとなったのか
〜開発ストーリーから探るパンダの本質〜

 


 

  prologue
   
   このページを読んでいる人は、基本的にパンダが大好きな人のはずですよね。皆さん、パンダのどこが好きですか?「キュートなデザイン」、「生きのいいエンジン」、「楽しいハンドリング」、「のどかな乗り心地」、「居心地のいい室内」、色々と出てくると思います。しかし、何か根元的な、パンダというクルマから感じる、不思議な説明の困難な感覚を持っていますよね?横置きの4気筒エンジンでフロントを駆動する、大人4人と荷物を収納する室内を持った3ドアハッチバックという、基本的な成り立ちは至極オーソドックスなクルマなのに、同クラスのクルマとは明確に違う「何か」がある。もちろん、基本設計が今となっては古く、それ故の味もありますし、室内デザインに代表される、他車とは一線を画した数々のアイデアもあります。しかし、このクルマにはそのようなアイデアの足し算だけでは得られるはずのないオーラが漂っているのも事実です。そうでなければ、発売から20年を経た今でも沢山の人を魅了し、また本国イタリアでは新車が作り続けられ売れ続けられるはずがありません。
 ここでは、なぜパンダがそのような魅力を得るに至ったのか、それを開発ヒストリーから迫ってみたいと思います。そこから浮かび上がってくる、パンダの本質こそ、我々がこのちっぽけなクルマに惹かれる本当の理由なのではないでしょうか。

 

  社会情勢
   
   いきなり堅い話になって恐縮ですが、パンダの誕生において、当時のイタリアの社会状況を避けては通れません。パンダがフィアットの社内ではなく、外部のイタルデザインに依頼(主要車種の外部依頼はフィアットにとって空前絶後のことなのです)することとなったのは、イタリアの社会的要因、その為に起こったフィアットの危機的状況のためであり、パンダがああいうクルマになったこと自体にも、大きく影響したことだからなのです。
 第二次世界大戦後、同じく敗戦国であるドイツ・日本と同様に驚異的な復興を遂げました。イタリア最大の企業であるフィアットもまた、 1960年代末にはEU圏で最大のシェアを握るほどの隆盛を誇ったのです。それはイタリア南部の安い労働力による高い生産性を原動力としたもの(200万人をはるかに越える労働者が移動したと言われています)でありましたが、しかし1960年代終盤に、その大量の労働移民による社会的な歪みが原因で、労働争議が噴出することとなります。その争いの渦中へ放り込まれたフィアットの生産効率は著しく落ち込みました。争議が沈静した後も労働者のストは頻発し、10%以上のサボタージュが恒常化し、労働意欲も減退し続けていました。さらに1973年のオイルショックも重なり、1974年以降は新型車も出せない状況の中、フィアットは業績を悪化させていき、ついに1975年には大幅な損失を計上することとなってしまったのです。

 

  起死回生
   
   そのような危機的状況の中、フィアットを率いていたのは、創設者ジョバンニ・アニエッリ一世の孫、ジャンニ・アニエッリでした。ジョバンニ時代から、フィアットを支えた副社長ヴィットリヨ・ヴァレッタが1966年に引退した後、この危機の中で弟のウンベルト・アニエッリを副社長に据え、組織改革に乗り出してこの危機を脱しようとしました。ウンベルトは思うように功を奏しない自動車部門の組織改編を一気に進展させるため、76年3月に親友であり優秀な経営者であったカルロ・デ・ベネディッティを迎え、自分の後継者にさせるため組織の体制を整えました(この年の6月にウンベルトは政界入りするためにフィアットから去る)。ベネディッティはジャンニが1975年に自動車部門への投資を抑える決断をしたことに逆行し、主力の自動車部門の復活こそがフィアットを建て直すことだと、積極的な新型車の投入計画を進めます。当時、すでに旧態然としていた126(基本はチンクエチェントから変わらない、空冷直列2気筒をリアに納めた小型車)に変わるベーシックカーを創造する「プロジェクト・ゼロ」、後のパンダとなるスモール・ユーティリティ・カーのプロジェクトは、そんな中でスタートしました。

 

  Giorgetto Giugiaro 〜 Ital Design
     
   パンダの開発において、この人物を避けて通ることは出来ないでしょう。ジョルジェット・ジウジアーロ。カーデザイナーとして、もっとも有名な人物の一人である氏は、パンダのデザインだけではなく、コンセプト・設計のすべてに関わり、まさにパンダの生みの親と呼ぶに相応しい人物です。
    1938年、代々フレスコ画を手がける職人画家の家に生まれたジウジアーロは、1956年、彼のスケッチに感銘を受けたダンテ・ジアコーザ(トッポリーノ・チンクエチェントから、128やX1/9まで手がけた、フィアットの名物エンジニア)に誘われてフィアットのスタイリング・センターに入り、その後ベルトーネ、ギアと名だたるカロッツェリア(独立の自動車デザイン会社。本当はもっと広い意味があるのですが便宜上そう考えて下さい)のチーフデザイナーに就任した後、1967年には独立し、翌年イタルデザインを立ち上げます。イタルデザインでジウジアーロは、デザインだけでなく、クルマの設計、開発、量産開発までも出来る体制を作り上げていました。

"Giorgetto Giugiaro"

 

  明確で困難な要求
   
   1976年7月、ベネディッティはモンカリエリにあるイタルデザインを訪れます。ベネディッティはバカンスを間近に控えていたジウジアーロに「僕らは全く新しいクルマを作りたいと思っている。室内が広くて、値段が安いやつだ。それを126のエンジンを使って実現したい」、「フランスのクルマのような」、「外見は素朴で、でも根本的には理性的なやつがいい」と告げ、ここにすべてがはじまったのです。ベネディッティ氏は、このプロジェクトをどうしても短時間で実現する必要があると考えていました。大きいが故に小回りの利かないフィアットではなく、小さな会社であるイタルデザイン(当時の従業員数は160名程度)の機動力に賭けたのです。
 イタルデザインに対するフィアット側の要求は非常に明確、かつ実現困難なものでした。「車両重量と生産コストを126と同等に、サイズは126と127の中間で」、その上で最新のライバルに対抗できる室内空間、ユーティリティを実現しなければならなかったのです。これがいかに困難なことであるか、例えばライバルの一つ、ルノー4(キャトル)はその全長が「ゼロ」より34cmも長いという事、そして126はシンプルの極地であるチンクエチェントを祖に持ち、元々非常に生産コストが低く、軽量なクルマであったという事を考えてもお分かりになると思います。通常の手法では、とても実現不可能であり、しかも、労働意欲の落ちている工場でも問題ないよう、生産の容易さも同時に考えなければなりませんでした。
 ジウジアーロはバカンスにスケッチブックを携え、フィアットによって「ティーポ・ゼロ(英語で"Type Zero"の意味)」というコードネームを付けられたクルマを実現させるためのアイデアを創造することに没頭しました。(多くのイタリア人と同様に)バカンスに一切仕事を持ち込まない主義であるジウジアーロが、どうして「ゼロ」の時には自分の主義を曲げることとなったのか。後に氏はこう語っています、「フィアットの実用車を自分がデザインするという興奮が奇跡を起こしたのです」。そう、氏はついに恩師であるジアコーザと同じ地点にたどり着いたのです。

 

  回る因果
   
   ジウジアーロがバカンス先で「ゼロ」のアイデアを生み出すことに没頭していた1976年8月、独裁的で強引な人事が重役陣の一斉放棄を招いたことにより、ジャンニ・アニエッリはベネディッティの解任を余儀なくされます。「プロジェクト・ゼロ」は、ベネディッティによって辞任に追い込まれていた自動車部門の部長であるニコラ・トゥファレッリを急遽呼び戻し、彼に任されることとなりました。
 ジウジアーロと、彼の片腕であり「ゼロ」の技術・機構設計を担ったアルド・マントヴァーニにより、急ピッチで「ゼロ」のコンセプトは固まっていきます。
  室内空間と荷室容量を飛躍的に向上させるため、エンジンをフロントに置き前輪を駆動するFFとし、コストとスペース、耐荷重性をすべて満足させるためにリアにはFFでは珍しいリーフリジッドを採用する基本レイアウトをまとめあげ、軽量化と室内容積と生産性を同時に解決する方法として、全てのガラスに平面ガラスを採用しました。また、室内は徹底的に簡素にし、その上で万全の役割を示すために数々のアイデアを取り入れます。バーとキャンバスで構成されたダッシュポケット、鋼管に伸縮性のキャンバスを張った、簡素な構造のハンモック式フロントシート、担架のように両端のバーにキャンバスを張り、バーの取り付けポイントを変更することにより変幻自在のレイアウトを実現したリアシートを採用、ここでも見事にコストと生産性と機能性を獲得するに至ったのです。ジウジアーロは、後に「心が豊かになる室内」がテーマだったと言っていますが、この室内空間こそが、「ゼロ」のスタート地点となったのです。
 1976年9月、ディメンションと主要構成が決定し、インテリアの概略モックアップと共に、「ティーポ・ゼロ」はフィアットに提示されます。立ち会ったのは前述のトゥファレッリ。実は、ジウジアーロのフィアット時代の上司であり、ジウジアーロはそのトゥファレッリと対立したことにより、フィアットを飛び出したという経緯があったのです。
 自分を追い出したベネディッティと、自分が追い出したジウジアーロが作り上げた「ティーポ・ゼロ」、しかしトゥファレッリはそのコンセプトを熱狂的に支持し、プロジェクトは次の段階へ進んだのです。

 

  革命
     
 

 プロジェクトがスタートして僅か4ヶ月後、最初のモックアップが完成します。そして、明けて1977年の1月にフィアットの技術者への2種類のモックアップ(一つはシンプルでプリミティブなもの、もう一つはもう少し洗練されたもの、とのこと)プレゼンテーションが行われ、2月にはデザインがほぼ完成します。このころには、イタルデザイン社内で「ゼロ」は「ルスティカ」"Rustica"(=シンプルな、素朴な、という意味)と呼ばれるようになり、プレゼンテーションでもこの名前で呼ばれていました。エンジンは126の空冷直列2気筒(650cc)の縦置きに加え、127用の水冷直列4気筒(900cc)もジアコーサ式の横置きで使われることになりました。独特の左右非対称デザインの鉄板プレスのグリルは、180度回転させることによってラジエーターと強制冷却ファン、それぞれ位置の異なる2つのエンジンに対応できるよう、デザインされています。
 「ルスティカ」の著しい成果は、この時のライバルとの比較資料でも明らかでした。同じエンジンレイアウトで一回り大きい127よりも広い室内容積を実現し、しかも117kgも軽い。そして34cmも長いルノー4や26cm長い127とほぼ同等の積載能力を持っていたのです。


"Rustica"
 

 同時に、ルスティカには組付けを簡便に行う為の、様々な工夫が凝らされていました。テールゲートやボンネットは、ボディの開口部に蓋を被せたようなデザインになっていますが、これは組み付け時に多少ずれていても目立たせないためです。工業製品にとって、面と面とのクリアランス(チリ)を詰めることは、それだけ手間が掛かり、すなわちコストに跳ね返るものなのです。また、ボディのサイドパネルとルーフパネルの溶接に関しても、通常はパネルを重ねて溶接機を側面から回り込ませて挟み込んで溶接するのですが、ルスティカの場合、パネルの両端を折り曲げて立て、そこを合わせて溶接してしまうのです。この方が作業が簡単になるのですが、その時に立てた縁を隠すために通常よりも太いモールが必要となりました。しかし、ジウジアーロはこれも見事にデザインに組み入れています。
生産型に採用されなかった案としては、ドアの下部をプラスチック製にして、ただでさえ平面ガラス故に容易なガラスの組付けをさらに簡単にする工夫(ドアパネルに開口部を設けそこからガラスを組んだ後、プラスチックのパネルで蓋をする?)もありました(初期型パンダの特徴であるボディ下部の樹脂コーティングは、この時の名残なのですね)。
 このように、ルスティカは機能・コスト・生産性・デザインが有機的に組み合わされる形で開発が進んでいきました。全ての要素は、論理的に考え抜かれ、二重三重の意味を持っているのです(ジウジアーロは、自分を「ロジカルな人間」だと評しています)。

 

  「ルスティカ」から「パンダ」へ
   
 

 その後、量産化への開発が続けられたルスティカは、その名を「パンダ」と変え、1979年9月、遂にパイロット生産が立ち上がりました。パンダというネーミングは、フィアットが名付けたもので、テーマカラーのアイボリーとボディ下部の黒の樹脂コーティングのコンビネーションが動物のパンダを連想させるから、というのが一般的な定説ですが、どうやら当時イタリアに動物のパンダがやってきていたようで、それにあやかったネーミングのようです。フィアットが出版した創立99周年記念の本には、パンダの欄にこのようなものが掲載されています(これに関する説明は一切ありませんでしたが)。

 実は、パンダというネーミングには、どういう訳かパンダをキャラクターに使用しているWWF(世界野生生物基金)からクレームが付いたという逸話もあります。結局、これはフィアットの政治力でねじ伏せてしまったようです。
 こうして無事にパンダは1980年の春に販売が開始され、その後20年以上の長きに渡り作り続けられ、その累計生産数は恩師ジアコーザが作り上げた初代チンクエチェントすらも抜き去る400万台に達し、21世紀になった今もその生産は続き、イタリアの国民の足として活躍し続けているのです。
 

 

  epilogue
   
 

 のほほんとしたルックスからは想像も出来ないかもしれませんが、パンダにはフィアットの危機的状況を救うという、非常に大きな使命を背負って生まれた経緯あったんですね。そして、苦しい条件の中、ジウジアーロ率いるイタルデザインのチームが完璧な形で答えを出しました。徹底的にロジカルで、しかしあくまで「人間中心」であることを貫き(労働者もユーザーも幸せに出来るクルマ)、ただの上級者の縮小版ではない、まったく新しいコンセプトのコンパクトカーを世に送り出したのです。
 我々がパンダに惹かれるのは、彼らの強い思い、メッセージをどこかで感じているからかもしれません。決して、企業のルーチンワークから生まれたわけではない希代の名コンパクトカーは、それゆえ今でもその輝きを失ってはいないのです。

 

・参考文献

Car magazine 225 P80「政治通が語るパンダの開発背景」斎藤浩之
Car magazine 265 P29「パンダにはすべて理由がある」ジョルジェット・ジウジアーロ
World Car Guide15 FIAT
以上、ネコ・パブリッシング
La storia di Panda フィアット・オート・ジャパン


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